2011年12月28日水曜日

灰色

Young Adam
(2003・英)という映画を観ました。


全体的にグレーで、明るいか暗いかで言ったら、暗い映画でした。
映画を、明るい映画・暗い映画で区切るのはおかしいですが、
「暗くしている映画」だと思った。


「人間はいつか妥協という名の灰色の帽子をかぶる」


とは、ウッディアレンのShadows and Fog(1991)のなかのセリフ。
その一言に、わたしは妙にうんうん納得してしまいました。


灰色、グレーとは、ひとそのものの色と思う。
人は黒でも白でもない。
グレー。


まだグレーな部分がある、だなんて、
人が関与した出来事全て、はいいろだわ。


逆に灰色にして置きたいときもある。
「うふふ」でごまかしたいとき。特におとなが使う手。
でもそれは必要な手段。ずるいけど。


この映画で、ユアン・マクレガーはセクシーだった。
妊娠したのと告白する別れた彼女を冷たく散らす場面。
男の人ってそういうところがある。
回避したいときは回避する。
それは決して悪しき事じゃないと思う。
それが、意図だから。
その回避方法は灰色じゃなかったのに、結末はど、が着くほど灰色だった。
わたしは
人間っぽくて、こういう映画好きだなと思った。



2011年12月24日土曜日

壊してしまう

わたしは、よくものを壊してしまう。
つい、うっかり、だ。故意にではない。


気に入っていた、クマさんの鏡を、
さきほど、壊した。まだ痛々しい。


ものは大事にしている。(つもり。)
私のまわりの人に居てくれる人、関わってくださっている人たちも、大事にしている。
(つもりなのですが。)

実は大事にしていた三味線も、うっかり壊してしまった。
だから高価な、割れやすいもの(とくにカップやら食器やらガラスの置物やら)がお金という理由以外の理由でも、自己意志で買うことができない。

かたちあるものは、いずれ壊れる。


それはそうと、くまさんはショックだ。よりによって、クリスマスイブなのに。(トナカイじゃないので関係ないが。)
ベッドに置いてあるスノードームも、
わたしはいつかきっと、ふいに壊してしまう。
i phoneを買うときも、それが理由で購入をかなり躊躇った。
「あれは壊しちゃうなぁー。絶対。」
だってもろだし画面にガラスの背面なんですもの。
壊し要素たぷし。

まだ。壊れていない。
そんなふうにどきどきしながら、わたしも、わたしのi phoneさんも
怯える日々を送っている。

無宗教ですが、言葉だけでちょっとのハッピーが訪れるんなら、
絶対それは言葉にすべきと思う。
よって、



♥mina,,






2011年12月18日日曜日

書くこと。


Finding Forrester

(2000年米)という映画を観た。

黒人の頭脳明晰な16歳の少年が、ある老人に才能を見初められ開花する。そんなお話し。

「考えるな、第一稿はハートで書け」と。
老人とは一作しか世に出版してないにも係らずベストセラー作家だった。

私は何か文を書くことは大好きなのですが、これはどう表現したらいいのだろうと思うことが多々、多々ある。ああだとさっき使ったこうだと綺麗ごと過ぎるし、そう書くとあまりにも曖昧。
そんなふうに迷うことなくさらさら書けて、その文章を読んだ第三者がその文章について納得、感動、共感等を呼び起こさせたら、それを書いたひとには文章を書く才能があるのだと思う。

この映画でフォレスト(主人公の高校生)は自分の生まれ育ったあまり治安のよくない環境でのウィークポイントを抱えながらも、オファーを受けた進学校へ進む。
有能な
バスケット選手でもある彼。

一も二も与えられた才能?

努力?

こんなきれいな映画をみせられたら、
努力して得た才能はかならず開花するものなんだわと思ってしまう。

ガスヴァンサント監督、ElephantもMILKもイメージが違うなぁ。
Restless観たいなぁ。





2011年12月16日金曜日

空想にひたること

「アメリ」(原題:Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain)(2001・仏映画)を、観た。

―「ちょっと変わったパリジェンヌのおしゃれで恋する女の子の日常。」
確かそんな紹介文をみたことはあったものの、有名だし、いつでも観られるだろうなとか思いながら、私はその作品を手に取ることはなかった。

損した。

とっても愛らしく、そのワールドをわたしはもっと、空想力のある子どもの頃に覗き観ておきたかった。
彼女の織り成すポップな空想世界に移住して、カリフラワーの山に埋もれたい。寝る前に証明写真に明日の出来事を相談したい。サーモンピンクのカーディガンにベレー帽を被りたい。おしゃれなカフェで男女の不思議についてを実験したい。金魚にクジラという名まえをつけて自殺する現場を見たい。
パリボーイに恋をして、ローマの休日ごっこをしたい。

「人間には、人生に失敗する権利がある。」

がつがつ、ぎらぎら、しめしめした現実からちょっと抜け出し、
このキュートな世界に学ぶものが沢山あると思う。
もしこの先ちょっと乾いた自分に気付いたとき、潤いのヒントになる作品に出逢えたことを嬉しく思う。

このくりくりおめめの上目づかい。

10代のうちに。






2011年12月12日月曜日

男の子と女の子

つい最近、知人が言ったことばが耳に残った。
「男の子は理性で行動する生き物。女の子は感情で動く生き物」。
ええっ。そうなの?

感情的発信の行動を起こすことが多いのは、男の子の気がする。
その場では言わなかったが、私は少しそう思った。
何かしら凶悪事件の犯人はだいたいにして男性が多い。もちろん全ての事件が表に出るわけではないけれども、男性のほうが「感情が豊か」なのではないかな、と私は思う。

殺意の発信は感情から産まれるもの。それが「かっとなって」だとしても「緻密な計画的」だとしても、
震源地は、人間の感情の渦から。

女の子は打算的だ。打算的イコール理性的ではないけれど、感情をすばやく計算処理できるのは、女の子な気がする。その速度が速い女性は優雅だ。でも感情が表に出やすい女の子はどこか人間的で、可愛らしくもある。おとなになると、感情をあやめなければならない場所に居てなきゃならない。

例えば「感情虎の巻」とかが売ってたとして、それが気軽に買えたとして、すべての人が皆感情コントロールを的確に出来るような世界になったら。
紛争はなくなるかもしれない。もしかしたらさらに勃発するかも知れない。
涙は減るかもしれない。
でも笑顔も減るかも知れない。

猫はけたけた笑わない。
鳥はしくしく鳴かない。
海はシロナガスくじらの涙なのだと、だからしょっぱいのだと、訊いたことがあるけれど、
それはきっと人間の環境破壊に対する風刺で、事実ではない。

感情を持っていること。
男の子にも女の子にも関わらず、それがいかに嬉しいことか、最近感じるようになった。
今日のタイトルと、論拠と締めがずれたことをお許しください。




2011年12月9日金曜日

我に返る


興奮状態からさめ、平生の心境に戻る。正常な判断力を取り戻す。
「我に返る」とも書く。
                    <weblio辞書より>




私に限らず、すっとどこかへリンクしてしまい、浮遊してしまい、ふっと「我に返る」ことが、人間ならあると思う。
しかしそれは人に限らない。


とある猫は、野良猫だった。ある優しい女性に拾われ、いえ、捕まえられ、去勢手術を施された。
生として動物としての力を、喪失した。
猫は人間に飼われた。人間を嫌った。なつかなかった。


その猫が人と暮らし始めて、何年か経過した。
猫は人間に、すこしだけ心を開いた。
人間の差し出す手に触れるようになったし、人間の居る前で寝るようになった。
自分でみつけたボールにじゃれる。しかし、ふっと我に返る。
猫はそれまでの無邪気な自分を掻き消し、どこかよその部屋へ。


憎めない猫でしょ、と母は言った。
子どもの頃の壮絶な体験がのちの人(猫)生を変えてしまうのよ。


猫の可愛さがない。
しかしその猫が何かに「猫らしく」じゃれて、我に返る瞬間、私にはどうしても、
人間っぽく見えてしょうがない。



睨みをきかす。多分、名が気に入らない。

2011年12月4日日曜日

ソーシャル・ネットワーキング・サービスⅡ

②FACEBOOK

◆いいね!前提で善いことだらけ
facebookのルールの一つが、「本名での登録」。
ネット上に自分の実名が出るなんて怖い。これが私の最初の感想だ。
しかし始めてみるとその実名こそが安心できることだと感じるようになった。
中学校の同級生や高校時代の友達と少しずつ繋がっていく「プチネットワーク」感覚。
そしてよく会うのにあまり深い会話をする機会のない人の「意外な休日」を知り、
その人の一面を知る「近づいた感」。直接の会話での親近感より浅く、
メールでやり取りするほどのことでもない「他愛のないニュース」。
そう、facebookの良い所は「いいこと」を共有することを前提にしていること。
「結婚おめでとう」「happy birthday」
「面白い動画みつけた」
「うちのわんちゃん可愛いでしょ」
「美味しいごはんを食べた」
「この曲いいよ」

「いいね」と言われることが共有され、広がっていくことは勿論いいこと。
しかしその広がる範囲が、「仲良しグループ」に留まらず、
名前だけ知ってる、又、友達の××ちゃんの知り合い、ただの知り合いの知り合いと
薄い関係であること。最初に感じていた、
こわくないのかな、悪用されないかしら、という疑問はとうに消えた。
少しでも繋がることで、安心している。
現実の生活を「帯1」だとすると、facebook上で同期しつつ、「帯-1」という世界が
広がっている。帯-1でもあり、
時には帯2(+1)とも言える。
現実につらい、苦いことはアップしないのだから、FB上のいいことだらけの帯は、
+(現実世界より上部に浮いている)である
可能性が高い。

◆うすうす絆の価値の高さ
「ネット上で不可能なこと」が
少なくなっていく。
現実にはたった一度しか会っていない「友達」でもFB上で毎日の帯2を共有していれば、
何だか本当に親しい友達のようで。
それは良いことなのか、良くないことなのかと問われたら本当に「どちらとも言えない」。

しかしfacebookでの発揮される繋がりとは、そういった「弱い絆」だという記事を
読んだことがある。
その記事を読んだのはこんなにも生活の一部になる前だったが、今、
全くその通りだなと思う。
人間はつながり、を持つことが出来るのは150人程度が限界だという説がある。
イギリスの人類学者、進化生物学者のロビン・ダンバー教授が唱えたもので、
その数字を「ダンバー数」という。
「それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」と定義づけしている。
「友達」が相互承認されてようやくお互いのウォールを覗けることになるが、
150という数字が友達と呼べるかというとそれは違う。
そこで言う「友だち」とはビジネス関係だったり学校やあまりきっちりとしたラインのが存在しない
仲間が大半だと思う。

しかし「グッド」もしくは「ライク」なニュース、
もしくはくすっと笑える些細なことが、
その時落ちていた友達、また自分のところにやってくる。
そのブリッジはfacebookしか、今のところ思い浮かばない。

◆スピーディーの勝ち
メディアは最新の方法に目を向けると言われている。
その中に、一般人が巻き込まれたのか、巻き込んだのか、
FBの浸透推移のスピードの数字にも驚く。
ラジオの利用者が5000万人になるまで38年かかった。
テレビの視聴者が同じ数になるまで4年。
しかしFACEBOOKの利用者に関しては12か月で2億人だという。
魅力はその「あっというま」のスピード性にあると思う。
あっというまに広がる。
簡単で早い。
そこに悪用する人がでないわけがない。
そこは「怖い点」でもあるが「面白み」のほうが断然強い。
そして自分自身が参加、自分自身が主役というか操作できるツールは、
子どもの時のゲームに似た感覚すらある気がする。
反応を見て、工夫するわくわく。
「お友達」のリンクがいいなっと思ったら即シェアリング。

大きなウェブサイトはデータベースのバックアップを取る。
一度投稿されると絶対的な意味でのプライバシーはない。
コピーが必ずどこかに残っている。
「これはまずいかな」「これは面白いしOKでしょ」
twitterと同じように、FBもその制御がかかったなかで
投稿、閲覧することに意義があるのかもしれない。
しかしトップページのフィードTLは流れ流れる。
友だちが何十人もいれば、昨日の友だちAのはっちゃけた写真はもうとうに下の下のほうへ。
どこまで自分をオープンに出来るか、
どこまでそのあっというまの波に乗れるか。
SNSでこそ、ネットサーファーの腕の見せどころかも知れない。




怖い実体験(有名な某タレントのマネージャーやってます)も、
怖い犯罪も、SNSにはつきもの。
http://blog.livedoor.jp/newsscrap/archives/50972467.html
ネットショッピングよりずっとずっと、自己責任の真価が問われます。



ソーシャル・ネットワーキング・サービスⅠ


私がtwitterとfacebookを始めたきっかけは、「友人に薦められたから」だった。
友人はPCのネットを繋げていなかった。すべてスマホォンからの投稿、閲覧だった。
あなたも呟いている人なの?

「どこがいいの?」と聞くと、友人は答えた。
「会わなくっても元気にしてるんだって、分かるじゃん」
あたりまえのことのようにやってるよ、と言われたその時、少しだけ
置いていかれた感があった。

そうして始めた二つのSNSは、今や私の生活には欠かせない存在となってしまった。


①twitter
◆What's happening?
twitterの投稿スペースには、「今、どうしてる?」とある。
その時自分の感じたこと、思いついたことを、「なんでも呟ける場所」。

「白金のイタリアンでブランチなう」
始める前の私は、「だから?」「で?」と心のなかで呟いていた。
あなたが白金に今居ようが居まいが、遅めのランチでちょっとリッチな蟹クリームパスタを食べようが、
私の生活に、何のメリットも及ぼさないでしょう?
しかしtwitterとは「それ前提」のツールなのだった。

しかし始めて少しすると、どうでもいいことの波のなかにどうでもよくない小波が
混じっていることを知る。
渋谷を経て多摩川方面へ行きたい。何気なく、twitter。
「田園都市線 とまってるなう」
「ダイヤ大乱れなう」
あらら、じゃあバスにしちゃおうかな。

そうして普段はなかなか文庫本を開かないが、朝、習慣的にtwitterオープン。

「愛することは、いのちがけだよ」(太宰治botより)

そうですね、太宰さん。わたしも命をかけて人を愛したいです。
朝から偉大なお言葉が脳内にプットインされ、じわじわ得した気分。
過去の著名人の名言や、バイブル的アニメのキャラクターのじわっと来るセリフを
自動的にツイートしてくださっている方々が多くいる。

「物の重さが、宇宙へ行く前の感覚の2倍くらいに感じる(紙、鉛筆、手帳、携帯電話など)。」
(尊敬する宇宙飛行士古川聡さんご本人ツイートより)
また原発に関するツイート数の多さのおかげで、私自身興味が深まったのも事実。
「東電 「放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」
(原発ニュースツイートより)
もともとショートメッセージ用に作られたtwitterはバグを減らす為に生まれた”140文字”。
でもそのたったの140文字に規制されているからこそ、自分の本心の核をぱちぱちと文字に出来る。
ブログのように、飾りは必要じゃなかった。



◆140字×リアル=ちょうどよい加減で、必要な吐き場

制限されたスペースである程度のルールを守り、そのなかで自由を謳歌する。
賛同するも否定するも共有するも転送(RT)するも自由。
「同志」を保つも解除するもまたマイラインに入れるも自由。
すべてはワンクリックに委ねられている。
自分の思いを文字にするという行為が広がる理由は、その「狭い自由」があるからだと思う。
人は自分が可愛いし、しかし仲間はずれにされるとかなしい。
同意を得ると嬉しい。その単純で明快な心理を組み取った恐るべきネットツールが、twitterだった。