2011年9月29日木曜日

「努力は能力を超える」

中学校の時の部活のM先生がよく私たちに掛けた言葉だ。
部活動が嫌だった私は、努力をしていなかった。私たちの学年はすぐに敗退した。

努力をする、とは好ましい結果の為に、自分の全力を傾けること、とある。全力とは文字通り、ありったけの力、を意味する、とある。私はどうにか楽を出来ないかということに全力を注いだ。努力をしないことに、努力していたことになる。応援しがいのない選手だった。

私は高校野球を観る。甲子園に少量の涙する。そしていささか胸がちくりとする。それは中学校の頃の私のせいである。私はこの選手たちみたいに、全力プレーをしていなかった。白い球、土で汚れ茶色ばんだ白い球を、画面のなかの選手たちは全力どころか全力以上を出してプレーしている。私は見えない穴に、隠れ逃げたい気持ちになる。申し訳なくてしょうがない。

もしM先生が私のことを覚えていらしたら。私はさらに深い穴を探さなければならない。
それより先に、「生涯努力する」ことをみつけたい。そのあと、自分の声で、努力は能力を超える、と発音したい。

2011年9月28日水曜日

愛について語れるほど、私は人を愛した経験がない。
しかし愛おしい、という感情に、自分自身が気付くときが時たまある。ややっ、こいつ愛しいな。私はそんな時、この人と出逢えてよかったなと心から思う。自分以外、家族以外の誰か他人のことを大切に思うこと。そういう人がいて、だんだんそういう気持ちが薄れていく。それは他人だから。

しかし変わらない気持ち、という存在も私はあると知った。
そもそも人は変幻する生き物。だから特に男女関係においては、変わらない気もちというのは成立はしないと私は思う。でも、どこかに存在する。変わらない気持ち。それにはきっと幾つかの条件があって、何ミリかの利益も無いこと、どこにも疑う気もちのないこと、それから多くの味方を敵に回してもその人の味方になる程の気持ちがあること。

愛おしい、だらけは困る。
でも愛おしいという気持ちがあれば、私はこの世界に未練がある。だからこの世界のどこかを愛おしく感じる気がする。

2011年9月26日月曜日

About female sharpness

I asked the acquaintance yesterday and think that I will write about the impressive talk.
It means that it has the character  woman "to follow people's eyes."

For example, it is assumed that the woman Ms. A is fond of the male Mr. B.
Then, I think it natural that Ms. A tries to steal Mr. B's action.However, it is said that it does not come out so much and Ms. A pursues to Mr. B's "look."
And it is a thing that it is not an act to which a woman's action of "following a look" is applied to "a favorite man" according to an acquaintance's talk.

The word "intuition commits a woman" is heard. It may be got blocked and the woman may be coming instinctively from the thing of those who are worried or those who are in the circumference "for which her eyes are pursued."

I remembered suddenly that a certain writer had said, "An insensible woman is wonderful."
Possibly, it may not be good for a woman for there to be intuition too much, either.
Although "intuition" is not a foregone conclusion, a woman is that of "having looked" in inside free from not knowing.
The world of these days where such much information flies about. Doesn't my desire to prize "something that is not visible" now in such the world have necessity?

2011年9月25日日曜日

私にとってのカレーライス

私は小さい頃から「カレーライス」という食べ物が苦手だった。
多分理由は辛いから、というそれだけなんだったと思うが、一度嫌いというとなかなかその発言撤回をする機会がない。とくに子ども時代の私は、かなしくなるくらいに強情張りであった。
給食に必ずカレーライスという食べ物が出てくる。
私はそのカレーライスは残し、福神漬けを食べていた。福神漬けは大好きだった。

家でも私のカレー嫌いは定着しており、カレーを嫌う私に、母は私の分だけシチューを作ってくれた。テレビのカレーのコマーシャルを見る限り、カレーライスは「子どもの大好物」というイメージ付いている。
「カレーびより」だとか「朝カレーで元気もりもり!」だとか(少し違うのはうる覚え申し訳ありません)。

しかし大人になっても、私はそのカレーライスという一つの文化に、染まることができずにいた。
「カレーかぁ。わざわざお金を払ってなぁ」
でも男の子はみんなカレーライスが大好き。というより、大人もカレーが大好き。と、いうより日本人はカレーライスが大好き!成程なぁ。
私は上京する時に、一つ心に決めたことがあった。

「余計なプライドは全部実家に置いてきた」

染まってはいけない。しかし他の色に染まることは人間の楽しみの一つでもある。
上京してから付き合ったある男性は、「毎日カレーでもOK」という人だった。いきなりそこまでカレー教に住み込むことはできなかった。
が、彼のおかげで私はカレー嫌い宣言を、ようやく撤回する準備に入ることができた。

昨日、洗足駅の近くの「Bondy」という欧風カレー屋さんに初めて行った。私はビーフチーズカレーを注文。すると出てきたのは・・・


ほくほくのじゃがいも+バター。とアイス用のスプーン。
なんだか、これって。

じゃがが、カリーに入ることでの悪影響を除くことが理由なのかと思ったが、真相は謎です。
でもでも、微笑ましい。
そして運ばれてきた、カレーの美味しさといったら。
店員さんが、まるでディズニー映画のなかに出てくる人みたい。短時間でしたが、お菓子の家に入ったグレーテル気分になれました。素敵な笑顔と丁寧な接客に感謝。

そしてここのカレーライスさんは、私に、「概念の焼却」の重要性を知らしめてくれた。

2011年9月24日土曜日

あなたらしさ

「あなたらしさ」という言葉が嫌いだ。

そもそも、とはいえ、私はこのブログの自己紹介にて、人間っぽさについて書きたいほにゃほにゃと言っている。明らか矛盾している。でもそうなのだ。私は「あなたらしさを大事に」だとか、「あなたらしくないわ」とか言われると、何と返答していいか分からなくなってしまう。だからそんな言葉を、私に何かを教育してくれたり評価してくれたり、説明してくれる年上の立場にいる人に掛けられると、困惑する。

私の母も、どちらかと言うとそういう教えの人だった。
「人は人、自分は自分」。しかしこうも言った。
「人の振り見て我が振り直せ」人のああこの人のここの部分が自分は嫌だなと思ったら、自分はけしてしないこと。
逆に、人にされて嬉しいことは、周囲の人にもしてあげなさい、と。
要に自分は、かならず周囲のだれかに影響されている。影響されて刺激されて成長する。すべては自分が震源地ではなく、必ず周囲の「誰か」の「何か」に反応して、変化する。

じゃあ、あなたらしさ、とは何なのか。
あなたらしさ、は、「私らしさ」とイコールではない。自分以外の人の評価の一部である。自分では何とも思っていない所が誰かの気に入られたり、自分が気にもとめていない部分に警告切符が貼られたりする。評価を恐れているのかも知れない。だから私はあなたらしく、という言葉が嫌なのだ。

私は自分らしく行こう、突き進もうレッツゴーなんて思わない。常に誰かになりたいと思う。
その誰かは私の身近な人間な場合もあるし、生きていない異空間を泳いでいる三次元生物かもしれない。
私は小さいころ、「生まれ変わったら何になりたい?」という質問にこう答えていた。

「とびうお」

その頃の自分の普段考えていた事については、どこにもデータとして残っていないので残念だけれども、そんなにナンセンスな答えではないんじゃないかしら、と十何年経った、今思う。

2011年9月22日木曜日

Pinocchio

I saw today the movie "Pinocchio." Pinocchio is a Disney movie in 1940.
The contents of the tale are the following.

Mr.Geppetto makes a wooden doll. A name is Pinocchio.


Pinocchio becomes a bad child and is becoming a donkey.

However, by having had a brave feeling, it became a real child. 

Although classified to speak for children, I do not think so. 
A nose will be extended if a lie is told. It will become a donkey if a bad deed is carried out. 
I regard both as it being that an adult does from a child. 

A bad thing becomes natural. It stops recognizing a bad thing to be bad. 
The mouth of the adult who is calm and tells a lie. 
I seized on the essence as a person on this movie. 

a fairy -- Pinocchio -- thus, it says. 
A brave thing, a sincere thing, a humble thing .He who protected these was able to become a real child. 

I think that they are the most important things when these three items make a living as a person. 

The present world has too much temptation. I still learned the important thing for making a living as a one person from this tale. 
Pinocchio never returned to the donkey. I am also made to like to forget three promises I asked him to teach. 
Since I do not become a donkey.



2011年9月21日水曜日

人のまる、ばつ

天は人の上に人を作らず。

日本国の一万円札の顔であるお福さまが言ったとか実は言ってない、だとか、けれども心には刻まれる言葉に思います。
平等であるということは人間の大前提。誰かが上に立ったとしても、誰かが下の位置にいてたとしても、人としてその人自体が下になるわけではない。と、改めて文章にして読んでみると、何だかきれいごとのように思える。差別する人嫌だな、フェアな人間でありたいわ、なんて呟く人こそエゴ人かもしれない。

人間ですもの。好き嫌いはある。

まるとばつ、が書ける。
それはよくないことと思っていても、相性は努力する事で破ける布ではない部分もある。

これは過去の話しですが、
私はまる、ばつで言うと、大ばつの女の子と出逢った。わわっ。苦手だ。そう思った。
しかし話していくうちに苦手雲は消えていき、なんだぁばつは私の勘違いだったのね、と。
でも人間です。やはり布は丈夫で、破けることは出来なかった。
私はいまだにそのばつ子ちゃんのことを思います。
もしかしたらまる子ちゃんになったかもしれない。私の努力不足、ばつ子にもいいとこは一杯あった。でも、ばつは、まると全然違う形だ。

これから生きてゆけば、きっとたくさんのばつ夫やばつ子に出逢うだろう。
重い課題ですが、なんとか布を破く術をみにつけたい。

2011年9月19日月曜日

移籍

知人が中国転勤するらしい。メールで聞いた。
泣き顔絵文字が付いていたので、嬉しいことではないのだと思った。
自分が戦ってきた、たとえばグランドが、ある日突然まったく別な場所にかわる。
おおっと、ちょっと待って、と言ってしまいそうだ。
雲と戦う場面も起こり得そうだ。戦争の種類は同じでも、武器の名前が違うかもしれないし、その戦場にしか存在しないルールがあるかもしれない。
上を上を、
さらに上を目指す人。
満足とかじゃないのか。
野球選手がメジャーに行く理由は、上、だと思う。
上には上がいて、その上にも上がいる。伝染するのか、向上心は。
焦りは克己心に繋がっているのかもしれない。
どんなグランドで戦う選手であれ、戦う意欲のある人はかっこいい。

襟足が寒くなる季節が恋しい。
今日も暑い。

彼が、中国でいい試合が出来ます様。

2011年9月17日土曜日

年輪

昨日、年をとった。
年が増えた。あまり嬉しくない年になったなぁとしみじみ思った。
子どものときは、嬉しかったのに。

バウムクウヘンのケーキを頂いた。


年輪、という言葉を思い出した。
年を一つ重ねるごとに、一回り大きくなる。一年でいちラインずつ増えてゆくねんりん。
綴る、ことと似てる、と思う。
重ねる、重なっていく、増えていく。放置するかぎり増えっぱなし。減ることはないもの。
切断しないかぎり、消えることもない。
考えたらこの世のなかはそういうものの繋がりでできている。
風は断ち切っても、また別な風が進み、
水を切ってみてもクリアさは消えない。
ほっとかれる。
ほっとかれて、増え続けること。それはすごく怖くもある。

ああ、そこにあったの?
知ってはいたけど、存在感がなさすぎて、切るという判断にさえならなかったわ。
そんなことを言われたら、人間としてお終いだ。

バウムクウヘンを、一層ずつ、剥がして食べる方がいる。
ああいうタイプは、自分が生きてきた人生を噛みしめ噛みしめ食べている。
私はぼろぼろこぼしながら、少し豪快に食べる。
牛乳と一緒に。

2011年9月16日金曜日

part-time lover

Stevie Wonderの曲のことである。
パートタイムの恋人、という邦訳も出てはいた。今日知人にその曲のタイトルを聞いて、聴いてみたくなった。バラードかと思ったら、紀のいい曲だった。当時の彼の妻がバックコーラスとして参加しているとのこと。
浮気相手よ、本命ではない恋人って意味よ、と。
時間付きの恋人。限られた時を共有する恋仲。ちくたくとちくたくと時間は我々を追い込み、でも嫌じゃないわ、そういうの。人として誰かに酔ってしまった感じと、でも現実の生活は充実させときたいぜっていう本心との見え隠れらしさがありだなぁと思った。

恋ですべての生活は賄えない。

手のひらを二つ、同じ方向に向ける。ぴんと伸ばす。
幅は狭くなる。その意味の、視界を表すジェスチャー。
恋とかそういうのに似たものを感じてしまうと、視界が広がるようで、狭まる。狭まるのを無理に広げて、不思議な空間誤差が出来る。あらら、私の立ち位置はどこだったっけ。

時間は変えられない。
全くべつな二人がそのなかを共有するのだから、それは異空間同士をばしゅん、と合体させるような実験に近い。
時間が止まればいいのに、と思う。
あるいは巻き戻せたら。
でもそんなこと実際に起こったら、世界中の恋人間がそんなこと一斉に思ったように時間が変わったら、出逢えていなかったかも知れない。
だから時間は流れたままでいい。
すこしの時間のなかをシェアして、またワンにもどる。

2011年9月14日水曜日

ネットワーク、わーく。

アクセス解析について、そう考えたことはなかったが、
要に履歴が全て、記憶されるということ。
私に興味関心のありそうな広告が、見ているサイトさんに貼られってやってくる。
職業、性別、年齢はわかりそうなものだが、行動パターンや所在地、前職歴や、恋人がいるかいないか、どんな香水が好みか、どんなお酒を飲むか、どんな異性がタイプか、この一日の、自分の頭のなかがネットワーク内で感知され、管理され、いつのまにやら見えない奴ら(でも偉大!)の思うが儘になっている、とのこと。
先生のそんなお話しを聞いて一番怖かったのは、怖いという気がしない自分。

まぁ、生きてる時点でプライバシーなんてないんじゃないかしら。
と、私は呑気な考えすら持っていた。おお怖い。
自分を念入りにアピールしなければならない職業のひと。スターだとか女優さん芸人さんだとかは、きっと一般人に比べたらプライベートな部分さえ露出することも仕方のないこと。

でも私の友人、たとえば、山口はなこさん。
はなこちゃんが、今日朝スクランブルエッグを食べて、学校へ行き、
学校では一日中、大好きなごんざぶろう先生のことを考え、一度帰宅し、着替えて出掛け、
三宿のごんざぶろう先生の家へ合鍵を使って入り、先生が帰ってくるまでテレビを見ていたら、ヒッチコック急便のお兄さんが再配達にやってきて、伝票にサインをするときに軽く触れてしまった手に電流が走り、そのまま玄関でそういう行為になってしまった。

とか、あまり笑えない出来事が、すべてどこかで見つかっているのだ。
どこで呟かれるか、どこで「違いを発見」されるか、どこで間違いをあざ笑われているかわからない恐怖。
精神的に、強くないとしぶとくないと、気付いたら熱を上げてシャットダウンしてしまう。


壁に耳アリ、障子に目アリ、との
コトワザ生まれた当時の方の忠告の重さは、
昨今ほどになるとは思わなかったに違いない。

2011年9月12日月曜日

夏の終り

今日、夏が終った。

私はそう思いました。
十五夜だそう。お月様にいるうさちゃんの存在は、日本だけではないと聞いた事がある。
お月みたいな幻想的な、でもそこにちゃんと存在しているもの。
いくら人間の技術が、日進月歩、日進月歩でアンビリーバボウで優れたものに進化してきているとはいえ、宇宙空間に存在しているものには適わない。規模が違う。目指すことも意味がないと思う。

おとといの蝉。


暑い暑い暑い日の真昼でした。
蝉の鳴き声を聴くと、私は人間に生まれてよかったと思ってしまう。
実家で猫を飼っていた。
夏になると、リビングで蝉の鳴き声がするので、見渡してみると、猫が蝉を半殺しにして持ってくるのだ。猫は飼い主に、自分のハンター振りを褒められたい性質があるらしく、「生きたまま、持ってくる」のだ。スズメや虫の時もあった。
やがて蝉のあの鳴き声は泣き声になり、亡き声になった。
しかし猫も狩猟民族であるので、本気で叱るわけにもいかない、と母は言った。

「蝉は一週間しか生きられないのよ」
という短命伝説が有名だが、どうやらそうとも言い切れないらしい。
人間に飼われた場合飼育困難で、約一週間の命という。野外で夏を過ごす蝉はおよそ一か月の夏という人生(蝉生)を満喫する。

そうしてもう一つ新しい言葉をみつけた。
蝉は不完全変態をする昆虫だということ。
完全変態とは、以下の形で変態する昆虫のこと。
★卵→孵化→幼虫→孵化→蛹→羽化→成虫。★
その虫の変態模様を施すよいうになった理由の一説としては、古生代の寒冷期という悪環境を乗り切るため、だと言われているそう。
虫こそ自分の種の存続に文字通り命を懸けているのだ。
人間もよく未熟な位置でいることを蛹、だとか卵、だとか表現するが、その「蛹」でいるときが重要な役割を果たしているのだった。


でも、
でも、せみにはなりたくない。
人間でよかった。

2011年9月11日日曜日

女性の木

最近、知人が言った言葉が強く残った。

「女性は、生まれたときから防御能力を持っている」

その方が言うには、女の人は子どもを宿し、生むという機能、そして産んだ子を育てるという能力を持っている為、男性に比べ自己防御能力に優れているのだそうだ。

要は自分を、というより自分と同じ程あるいはそれ以上に、自分の子を守る為の力か。

ちっちゃな子どもを連れて電車に乗っているママさんを見ると、確かに強いなと思う。
自分だけであれば、自分、あとは自分の周りの世界、を視界としておけば済むことが、
子どもを連れている方は、自分、自分取り巻く世界、に追加して
子ども、その子を取りまく世界のことまで見てなきゃならない。
まったくの見知らぬだれかの母であっても、自分の母への尊敬に値する。

知っている女の子が、言った。
「早く子どもが欲しい」
母性本能なのでしょうか。
自分の子ども、という未知の領域に、想像すらつかない私は母性本能不足かも知れない。

女性が防御能力に長けていることに、男性が気付かない場合もあるらしい。
「意外と強いな、この女!」
と、男性が感じる所があったらそれが女性の防御能力のどこかなのでは、と思う。
女のひとのほうが男のひとより、「血」に強いという強論も、
その防御能力の一部かも知れない。
それは単に見る機会が多いだけでなく、女の人は赤が好きだから。

女性の木があったとしたら、赤い葉っぱ。秋じゃなくても。

2011年9月9日金曜日

恋について

「BRUTUS」という雑誌の今月号。
蒼井優ちゃんが首を傾げすくめながら、
「恋の、答え。」という表紙にきゅんとした私は、思わず手に取っていた。



文字通り恋、についての特集で、色んなジャンルの歴史人物目線からの
恋を垣間見ることができた。
わかりやすかったのはただの「恋愛論」や「恋の哲学」等ではなく、
恋の「アンサー」についてを組んでいたこと。
恋愛なんて本当に個人的で感情が流れを左右するものだから、人がこうあるべきという正論は存在しない。
そういう押し付けがましくなさに好感があった。

恋をすると周りが見えなくなる。
そういう言葉を聞いたことがある。
周り、とは
①自分の周りにいる異性、人間。
②もしくは自分の仕事や趣味、習い事、勉強していること等、形のあるもの。
 
周りが②であれば大問題だ。恋に関わったことにより起こった人災になってしまう。
①は、いい。
好きな人、「恋をしている人」がいると言える自分を、自分自身が認めているからだ。
他の異性は目に入らなくなる。
たとえ他の異性にきゅんとすることがあってもきゅんどまりだ。
その恋をしているお相手のことを妄想し、自分だけで羅列され繰り返される生活に侵入させること。
この世界に存在するすべてのものに著作権やらが肖像権やらが存在すると先生はいうけれども、
妄想域で留めておけば何の問題もない。
「恋をしているわ」とはっきり言える状況があるのは素晴らしい。

しかし、相手に自分の「好き」という気持ちを押し付けてしまう人もいる。
それについてはいかがなものかと思う。
もともと自分発信で恋に落ちてしまった人が、自分を好きになるなんてそんな気持ちの相互関係こそ
ミラクルと呼んでしまってもいい位の域だと思う。


勿論自称動物的に生きており、「メスなら誰でも」という殿方もいらっしゃる。
しかしそれは恋ではない。

妙に、妙に心に残っている、言葉。
「ずっと忘れられない人を初恋と呼ぶ」


その論でいくと私の初恋は高1だった。
その人を想うだけで涙が出てきた。精神病の切り口だ。
症状としては常に揺れ動めく状態が継続していること。
脳がとりつかれてしまうこと。由って原因の理由は内因にあたる。
恋煩いという素敵な日本語が教えてくれるように、恋をすることとは
恋をしてしまった、恋に落ちてしまったこと、との表し方のほうが正確ではないか。

私の好きな作家の江國香織さんの「東京タワー」という物語の有名な一文。
「恋はするものじゃなく、おちるものだ」

落ちてしまった
   ↓
落ちりっぱなし。
現在完了形か?

その「落ち方」については多分誰もが予測していなかった出来事。
しかし落ちてしまったからには、落ちてしまった相手の存在を大事にしたい。
そういう心身の欲求がぽんぽんと付随して、
恋に落ちた代償の大きさを知る。



2011年9月7日水曜日

フォーマーから、もらった衝撃

フォーマーとは、映画で効果音を作る人のことです。

「MIBⅡ」という映画を観てその名前を知った。
あの映画は奇抜な宇宙人が色々と出てくる。

たとえばぐにょぐにょした宇宙人が、撃たれたとき。
「ばちゅあぁぁ」の、
ような擬音が必要とされる。
一からつくるのだ。
どうするかというと、そうだ、あれを使おう、これも足そう、
それはおかしいだろ、のような感じで
フォーマーさんたちが作りだす。
「ばちゅあぁぁっ」の場合、
彼らが何を使ったかというと、水の入ったゴム風船のようなものを
ばしゃん!と割ったのだ。
そしておお、いいじゃん、と周りからOKが出る。

その現場の映像のなかで、彼らのなかの一人がこう言った。

「『この映画にはフォーマーがいたのか!』と言われるのが僕らにとっての褒め言葉だよ」

ああ、すごいなと思った。
裏方と言われる仕事のなかでも
けして目立たない。でもこの工夫して作り出された音によって
映画のワンシーンはよりリアルになる。
マシンで最新ソフトによって組み合わされたではない、
「フォーマーの部屋」にいる彼らによって作られた音。
中は金具やバケツやボールや、
まるで子供のおもちゃ箱と大工さんの木工具箱を足したような部屋だ。

印象に残ったのは、
2、3人の彼らが、本当に楽しそうな顔をしていたこと。
狭くごちゃごちゃした部屋で。

性的倒錯

これは、性道徳、社会の常識から逸脱した、性的嗜好のことを指している。
一般的には変態と記されることと同だと思う。
 一応その性的嗜好の意味調べたが、それについては個人的な概念や価値観、解釈があるため曖昧であり、
十分な注意や配慮が必要とされる、と記されてあった。
その理由としては差別、偏見に繋がるから、だそうだ。
確かに性的な事柄については、もう個人的極まりないことであり,逆に他人にべらべらしゃべる人の方が周囲に変な目で見られたりするもの。
 しかしその性的嗜好については、事実、基準点がない為、厳密に忠実に、ランクAだとかこの人はタイプ2のWの3度の変態であるというふうに定義出来ない。
つまり人間にしかあり得ない、人間らしさの一つであると言える。
 精神医学の分野では、精神障害の一種として診断されている症状を指す。
しかし膝を怪我したとか右腕を骨折した、等の目に見えるものではないため、
プライベート性が高く、その症状の重度についても、第三者にとっては判断しがたい。

なぜこういう話題になったかというと、最近知人のこんな話を聞いた為である。
その知人Eさんは。東北地方にKさんという知人がいた。
 そのKさんは、農家で豚や羊などの家畜を飼っていた。
「Kは、本当に変態なんだ。 自分とこの、ひつじやにわとりとやっちゃうんだ」
私はEさんのブラック冗談かと思ったが、どうやら本当らしい。
そのKさんとは女子では飽き足らず、 動物とそういった性的な関係を結んだとのこと。
 私と、その話しを聞いた女の子はひどく衝撃をくらった。

 しかし。 しかし昔に何かでそんな話を訊いたことがあった。
そうして思いだしたのが、アゴタ・クリストフの悪童日記という本である。
 そこには性倒錯者の将校が登場したり、わんわんと性的関係に結ばれたりするシーンがあるのだ。
勿論それには戦時下で縛られた生活からの脱却を切望し苦渋からのしょうがなしの現実回避などの理由があったかも知れない。
しかし性的嗜好というのは、かなり個人的な所存、第三者がこうです、ああですと介入すべきものではないのだ。
敢えていうならトイレの個室での作業のようなもの。
皆当然のことのように済ませてはいるが、他人の作業を、見たことはない。

性的倒錯は人という動物のなかで、ひろがりゆく世界。精神学、生理学等にも跨っている。
その分類しがたいなかでもちゃんと仕分けがなされてある。

よく聞くのはマゾ、サディズム。 露出狂、小児性愛、
フェティシズム(これはモノ、や人間の体のある一部などに性的興奮を覚えること)等。
 訊いたことのあるようなないような・・イズムの変態名が羅列してあるがどれも人間であれば
なきにしもあらずというような気がしてしまう。

 その中でも目に留まったのはハイポクシフィリア。
 これは低酸素症や窒息行為、窒息プレイにより心身ともに興奮、快感を覚えるというもの。
性的、とは言うが、以前聞いた話で、 登山する人は高度まで登ると、脳が酸素を奪われ、低酸素症により幻覚症状を覚えるという。
それが絶頂と結合され強力ハイパーな習慣性があると述べられている。
 つまり心というよりもう極にいってしまうからだがそうなる、ということである。
 窒息プレイにより死亡した件も記されており、 死にまで至ると何にもならないが、
快楽を得る為には人はこぞってなにか術を探る、というのは全世界共通であり、それは人の欲求のあらわれ。私たちは常に、①何かを求め、そのせいで②何かに窮する。③そして①以上の何かを求める。

しかし死んでは、本当に意味のない。
だんだんと刺激だったり難しいもの、際どいもの、自分自身の手ごろもに入れるのが困難なものを求めるのはやっぱり、やっぱり人間の性。
すべてに興味のなくなることよりかは、素晴らしいことだと思うのだけれども。

2011年9月6日火曜日

水が1秒間に何回回っているか

物理のスペシャリストであられる方と昨日お会いした。
私と一緒にいた子が、その方に訊いた。
「物理ってなんなん?よくわからん」

その方は笑ってこう言った。
「たとえば、この瓶に入っている水が、
1秒間に何回回っていると思うか?」

「何回?水って回ってるの?
止まってるじゃないですか」

「いや、回っているんだ
正解は1兆回。」

「兆?!」
「それが物理だ」

そのあまりに想像しがたい数値を
ちょっとでも、と思い物理ページを
覗いてみた。
◆純水では膨大な数の水分子がOH...Oの水素結合で
つながっている。
あるときは整然とあるときは乱雑に
集団で揺れ動いている。
OH結合は、1秒間に1兆個も振動、
回転しながらつながったりはずれたりして
揺れ動いている。

「たとえば太陽が1秒間に,
どのくらいの水素を
燃やしているのか」

◆1秒間に、6億5000万トン。
莫大な水素を持っているので後50億年以上は
現在の水素を燃やしながら輝き続けることができる。


「じゃあ、質問です。福島原発は
どうにかならないんですか」
と彼女は聞いた。
その方は即座に答えた。
「止めるは無理」
「無理なんですか」
「無理。最小限に抑えることに全力を尽くすことしか出来ない」



◆元々太陽のみが司ることが出来る、核結合◆
太陽がその1秒間に起こす水素爆発により、
5億9600万トンのヘリウムを生み出して、
その差400万トン/秒分をエネルギーとして放射し
そのうちの0.0000004%が太陽光として地球に届く事により、
私たちは生きている。

太陽が作り出したパワーを、
人間が核分裂というえせの形で作り出してしまったこと。
完璧な人災と非難する声はまさにその通り。
その強欲さが招いた責任は重い。刈り取れない種薪き。


6億5000トンという数値に、知のない私は
リアルさを求めることが出来ないが
その太陽のおかげでこうして生活ができていること。
繋がりはけたたましい数値で到底人間が真似でき得る数字ではないと思うが、
「繋がっている」ことに感謝をすべきだと思う。

tree of life

宗教という人間の思想に、上限も下限もない。
いわば天に届いてしまう場合もあり、逆に実際見たこともないだろうに地獄というアンダーグラウンドまで作り出してしまう。宗教というものはほんの触りに、誰かが誰かに対する「教え」から始まる。
多くはそれが自分の「親」から発行される。
「子」は、受動態でしかない。

この「tree of life」という映画を観て、一つ思い出した映画がある。
1998年の米映画「アメリカンヒストリーX」という映画。
トニー・ケイ監督作品、エドワード・ノートン主演であり、
話しの内容としては、白人至上主義の青年が若さと知性を武器に、黒人への人種差別・貧富の差を題材にしたものである。

この主人公が、白人至上主義という服を着始めた理由の発端は、
その父親であった。
若い時期(大きくは子どもの時期だと思う)に親から浴びせられる言葉、
また小さな呟きであろうとも、子どもはそれに従う。それが正しい事だとと思う。
子は親を理屈抜きに信頼しているからだ。
それくらい、実の親が子どもに与える影響力は大きいのである。

なにかを尊崇している。例えば、哲学者、物理学者であったり
何か功績を成し遂げた同業の人。好きな歌手、俳優。先輩、父親、母親。
例えばその人が、自分と異なる考え方だときづいたとき。
さてどうしよう。
その人へのリスペクトを安易に止めるか、自分の考えを曲げるかのどちらかだ。

宗教心というものについては深く知っていない。
しかし人の考えかたというのはふっと湧き出たり雨のようにぽつんと降ってきたりはしない。
誰かに必ず影響されて、この方向にたどり着きました、という過程だと思う。
自分が歩いてきた道がくねくねしていたとしても、
誰かのある一言で、ぽっきんと折れ、
180度異なる方向へ、進むかもしれない。明日からは。