2011年12月28日水曜日

灰色

Young Adam
(2003・英)という映画を観ました。


全体的にグレーで、明るいか暗いかで言ったら、暗い映画でした。
映画を、明るい映画・暗い映画で区切るのはおかしいですが、
「暗くしている映画」だと思った。


「人間はいつか妥協という名の灰色の帽子をかぶる」


とは、ウッディアレンのShadows and Fog(1991)のなかのセリフ。
その一言に、わたしは妙にうんうん納得してしまいました。


灰色、グレーとは、ひとそのものの色と思う。
人は黒でも白でもない。
グレー。


まだグレーな部分がある、だなんて、
人が関与した出来事全て、はいいろだわ。


逆に灰色にして置きたいときもある。
「うふふ」でごまかしたいとき。特におとなが使う手。
でもそれは必要な手段。ずるいけど。


この映画で、ユアン・マクレガーはセクシーだった。
妊娠したのと告白する別れた彼女を冷たく散らす場面。
男の人ってそういうところがある。
回避したいときは回避する。
それは決して悪しき事じゃないと思う。
それが、意図だから。
その回避方法は灰色じゃなかったのに、結末はど、が着くほど灰色だった。
わたしは
人間っぽくて、こういう映画好きだなと思った。



2011年12月24日土曜日

壊してしまう

わたしは、よくものを壊してしまう。
つい、うっかり、だ。故意にではない。


気に入っていた、クマさんの鏡を、
さきほど、壊した。まだ痛々しい。


ものは大事にしている。(つもり。)
私のまわりの人に居てくれる人、関わってくださっている人たちも、大事にしている。
(つもりなのですが。)

実は大事にしていた三味線も、うっかり壊してしまった。
だから高価な、割れやすいもの(とくにカップやら食器やらガラスの置物やら)がお金という理由以外の理由でも、自己意志で買うことができない。

かたちあるものは、いずれ壊れる。


それはそうと、くまさんはショックだ。よりによって、クリスマスイブなのに。(トナカイじゃないので関係ないが。)
ベッドに置いてあるスノードームも、
わたしはいつかきっと、ふいに壊してしまう。
i phoneを買うときも、それが理由で購入をかなり躊躇った。
「あれは壊しちゃうなぁー。絶対。」
だってもろだし画面にガラスの背面なんですもの。
壊し要素たぷし。

まだ。壊れていない。
そんなふうにどきどきしながら、わたしも、わたしのi phoneさんも
怯える日々を送っている。

無宗教ですが、言葉だけでちょっとのハッピーが訪れるんなら、
絶対それは言葉にすべきと思う。
よって、



♥mina,,






2011年12月18日日曜日

書くこと。


Finding Forrester

(2000年米)という映画を観た。

黒人の頭脳明晰な16歳の少年が、ある老人に才能を見初められ開花する。そんなお話し。

「考えるな、第一稿はハートで書け」と。
老人とは一作しか世に出版してないにも係らずベストセラー作家だった。

私は何か文を書くことは大好きなのですが、これはどう表現したらいいのだろうと思うことが多々、多々ある。ああだとさっき使ったこうだと綺麗ごと過ぎるし、そう書くとあまりにも曖昧。
そんなふうに迷うことなくさらさら書けて、その文章を読んだ第三者がその文章について納得、感動、共感等を呼び起こさせたら、それを書いたひとには文章を書く才能があるのだと思う。

この映画でフォレスト(主人公の高校生)は自分の生まれ育ったあまり治安のよくない環境でのウィークポイントを抱えながらも、オファーを受けた進学校へ進む。
有能な
バスケット選手でもある彼。

一も二も与えられた才能?

努力?

こんなきれいな映画をみせられたら、
努力して得た才能はかならず開花するものなんだわと思ってしまう。

ガスヴァンサント監督、ElephantもMILKもイメージが違うなぁ。
Restless観たいなぁ。





2011年12月16日金曜日

空想にひたること

「アメリ」(原題:Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain)(2001・仏映画)を、観た。

―「ちょっと変わったパリジェンヌのおしゃれで恋する女の子の日常。」
確かそんな紹介文をみたことはあったものの、有名だし、いつでも観られるだろうなとか思いながら、私はその作品を手に取ることはなかった。

損した。

とっても愛らしく、そのワールドをわたしはもっと、空想力のある子どもの頃に覗き観ておきたかった。
彼女の織り成すポップな空想世界に移住して、カリフラワーの山に埋もれたい。寝る前に証明写真に明日の出来事を相談したい。サーモンピンクのカーディガンにベレー帽を被りたい。おしゃれなカフェで男女の不思議についてを実験したい。金魚にクジラという名まえをつけて自殺する現場を見たい。
パリボーイに恋をして、ローマの休日ごっこをしたい。

「人間には、人生に失敗する権利がある。」

がつがつ、ぎらぎら、しめしめした現実からちょっと抜け出し、
このキュートな世界に学ぶものが沢山あると思う。
もしこの先ちょっと乾いた自分に気付いたとき、潤いのヒントになる作品に出逢えたことを嬉しく思う。

このくりくりおめめの上目づかい。

10代のうちに。






2011年12月12日月曜日

男の子と女の子

つい最近、知人が言ったことばが耳に残った。
「男の子は理性で行動する生き物。女の子は感情で動く生き物」。
ええっ。そうなの?

感情的発信の行動を起こすことが多いのは、男の子の気がする。
その場では言わなかったが、私は少しそう思った。
何かしら凶悪事件の犯人はだいたいにして男性が多い。もちろん全ての事件が表に出るわけではないけれども、男性のほうが「感情が豊か」なのではないかな、と私は思う。

殺意の発信は感情から産まれるもの。それが「かっとなって」だとしても「緻密な計画的」だとしても、
震源地は、人間の感情の渦から。

女の子は打算的だ。打算的イコール理性的ではないけれど、感情をすばやく計算処理できるのは、女の子な気がする。その速度が速い女性は優雅だ。でも感情が表に出やすい女の子はどこか人間的で、可愛らしくもある。おとなになると、感情をあやめなければならない場所に居てなきゃならない。

例えば「感情虎の巻」とかが売ってたとして、それが気軽に買えたとして、すべての人が皆感情コントロールを的確に出来るような世界になったら。
紛争はなくなるかもしれない。もしかしたらさらに勃発するかも知れない。
涙は減るかもしれない。
でも笑顔も減るかも知れない。

猫はけたけた笑わない。
鳥はしくしく鳴かない。
海はシロナガスくじらの涙なのだと、だからしょっぱいのだと、訊いたことがあるけれど、
それはきっと人間の環境破壊に対する風刺で、事実ではない。

感情を持っていること。
男の子にも女の子にも関わらず、それがいかに嬉しいことか、最近感じるようになった。
今日のタイトルと、論拠と締めがずれたことをお許しください。




2011年12月9日金曜日

我に返る


興奮状態からさめ、平生の心境に戻る。正常な判断力を取り戻す。
「我に返る」とも書く。
                    <weblio辞書より>




私に限らず、すっとどこかへリンクしてしまい、浮遊してしまい、ふっと「我に返る」ことが、人間ならあると思う。
しかしそれは人に限らない。


とある猫は、野良猫だった。ある優しい女性に拾われ、いえ、捕まえられ、去勢手術を施された。
生として動物としての力を、喪失した。
猫は人間に飼われた。人間を嫌った。なつかなかった。


その猫が人と暮らし始めて、何年か経過した。
猫は人間に、すこしだけ心を開いた。
人間の差し出す手に触れるようになったし、人間の居る前で寝るようになった。
自分でみつけたボールにじゃれる。しかし、ふっと我に返る。
猫はそれまでの無邪気な自分を掻き消し、どこかよその部屋へ。


憎めない猫でしょ、と母は言った。
子どもの頃の壮絶な体験がのちの人(猫)生を変えてしまうのよ。


猫の可愛さがない。
しかしその猫が何かに「猫らしく」じゃれて、我に返る瞬間、私にはどうしても、
人間っぽく見えてしょうがない。



睨みをきかす。多分、名が気に入らない。

2011年12月4日日曜日

ソーシャル・ネットワーキング・サービスⅡ

②FACEBOOK

◆いいね!前提で善いことだらけ
facebookのルールの一つが、「本名での登録」。
ネット上に自分の実名が出るなんて怖い。これが私の最初の感想だ。
しかし始めてみるとその実名こそが安心できることだと感じるようになった。
中学校の同級生や高校時代の友達と少しずつ繋がっていく「プチネットワーク」感覚。
そしてよく会うのにあまり深い会話をする機会のない人の「意外な休日」を知り、
その人の一面を知る「近づいた感」。直接の会話での親近感より浅く、
メールでやり取りするほどのことでもない「他愛のないニュース」。
そう、facebookの良い所は「いいこと」を共有することを前提にしていること。
「結婚おめでとう」「happy birthday」
「面白い動画みつけた」
「うちのわんちゃん可愛いでしょ」
「美味しいごはんを食べた」
「この曲いいよ」

「いいね」と言われることが共有され、広がっていくことは勿論いいこと。
しかしその広がる範囲が、「仲良しグループ」に留まらず、
名前だけ知ってる、又、友達の××ちゃんの知り合い、ただの知り合いの知り合いと
薄い関係であること。最初に感じていた、
こわくないのかな、悪用されないかしら、という疑問はとうに消えた。
少しでも繋がることで、安心している。
現実の生活を「帯1」だとすると、facebook上で同期しつつ、「帯-1」という世界が
広がっている。帯-1でもあり、
時には帯2(+1)とも言える。
現実につらい、苦いことはアップしないのだから、FB上のいいことだらけの帯は、
+(現実世界より上部に浮いている)である
可能性が高い。

◆うすうす絆の価値の高さ
「ネット上で不可能なこと」が
少なくなっていく。
現実にはたった一度しか会っていない「友達」でもFB上で毎日の帯2を共有していれば、
何だか本当に親しい友達のようで。
それは良いことなのか、良くないことなのかと問われたら本当に「どちらとも言えない」。

しかしfacebookでの発揮される繋がりとは、そういった「弱い絆」だという記事を
読んだことがある。
その記事を読んだのはこんなにも生活の一部になる前だったが、今、
全くその通りだなと思う。
人間はつながり、を持つことが出来るのは150人程度が限界だという説がある。
イギリスの人類学者、進化生物学者のロビン・ダンバー教授が唱えたもので、
その数字を「ダンバー数」という。
「それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」と定義づけしている。
「友達」が相互承認されてようやくお互いのウォールを覗けることになるが、
150という数字が友達と呼べるかというとそれは違う。
そこで言う「友だち」とはビジネス関係だったり学校やあまりきっちりとしたラインのが存在しない
仲間が大半だと思う。

しかし「グッド」もしくは「ライク」なニュース、
もしくはくすっと笑える些細なことが、
その時落ちていた友達、また自分のところにやってくる。
そのブリッジはfacebookしか、今のところ思い浮かばない。

◆スピーディーの勝ち
メディアは最新の方法に目を向けると言われている。
その中に、一般人が巻き込まれたのか、巻き込んだのか、
FBの浸透推移のスピードの数字にも驚く。
ラジオの利用者が5000万人になるまで38年かかった。
テレビの視聴者が同じ数になるまで4年。
しかしFACEBOOKの利用者に関しては12か月で2億人だという。
魅力はその「あっというま」のスピード性にあると思う。
あっというまに広がる。
簡単で早い。
そこに悪用する人がでないわけがない。
そこは「怖い点」でもあるが「面白み」のほうが断然強い。
そして自分自身が参加、自分自身が主役というか操作できるツールは、
子どもの時のゲームに似た感覚すらある気がする。
反応を見て、工夫するわくわく。
「お友達」のリンクがいいなっと思ったら即シェアリング。

大きなウェブサイトはデータベースのバックアップを取る。
一度投稿されると絶対的な意味でのプライバシーはない。
コピーが必ずどこかに残っている。
「これはまずいかな」「これは面白いしOKでしょ」
twitterと同じように、FBもその制御がかかったなかで
投稿、閲覧することに意義があるのかもしれない。
しかしトップページのフィードTLは流れ流れる。
友だちが何十人もいれば、昨日の友だちAのはっちゃけた写真はもうとうに下の下のほうへ。
どこまで自分をオープンに出来るか、
どこまでそのあっというまの波に乗れるか。
SNSでこそ、ネットサーファーの腕の見せどころかも知れない。




怖い実体験(有名な某タレントのマネージャーやってます)も、
怖い犯罪も、SNSにはつきもの。
http://blog.livedoor.jp/newsscrap/archives/50972467.html
ネットショッピングよりずっとずっと、自己責任の真価が問われます。



ソーシャル・ネットワーキング・サービスⅠ


私がtwitterとfacebookを始めたきっかけは、「友人に薦められたから」だった。
友人はPCのネットを繋げていなかった。すべてスマホォンからの投稿、閲覧だった。
あなたも呟いている人なの?

「どこがいいの?」と聞くと、友人は答えた。
「会わなくっても元気にしてるんだって、分かるじゃん」
あたりまえのことのようにやってるよ、と言われたその時、少しだけ
置いていかれた感があった。

そうして始めた二つのSNSは、今や私の生活には欠かせない存在となってしまった。


①twitter
◆What's happening?
twitterの投稿スペースには、「今、どうしてる?」とある。
その時自分の感じたこと、思いついたことを、「なんでも呟ける場所」。

「白金のイタリアンでブランチなう」
始める前の私は、「だから?」「で?」と心のなかで呟いていた。
あなたが白金に今居ようが居まいが、遅めのランチでちょっとリッチな蟹クリームパスタを食べようが、
私の生活に、何のメリットも及ぼさないでしょう?
しかしtwitterとは「それ前提」のツールなのだった。

しかし始めて少しすると、どうでもいいことの波のなかにどうでもよくない小波が
混じっていることを知る。
渋谷を経て多摩川方面へ行きたい。何気なく、twitter。
「田園都市線 とまってるなう」
「ダイヤ大乱れなう」
あらら、じゃあバスにしちゃおうかな。

そうして普段はなかなか文庫本を開かないが、朝、習慣的にtwitterオープン。

「愛することは、いのちがけだよ」(太宰治botより)

そうですね、太宰さん。わたしも命をかけて人を愛したいです。
朝から偉大なお言葉が脳内にプットインされ、じわじわ得した気分。
過去の著名人の名言や、バイブル的アニメのキャラクターのじわっと来るセリフを
自動的にツイートしてくださっている方々が多くいる。

「物の重さが、宇宙へ行く前の感覚の2倍くらいに感じる(紙、鉛筆、手帳、携帯電話など)。」
(尊敬する宇宙飛行士古川聡さんご本人ツイートより)
また原発に関するツイート数の多さのおかげで、私自身興味が深まったのも事実。
「東電 「放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」
(原発ニュースツイートより)
もともとショートメッセージ用に作られたtwitterはバグを減らす為に生まれた”140文字”。
でもそのたったの140文字に規制されているからこそ、自分の本心の核をぱちぱちと文字に出来る。
ブログのように、飾りは必要じゃなかった。



◆140字×リアル=ちょうどよい加減で、必要な吐き場

制限されたスペースである程度のルールを守り、そのなかで自由を謳歌する。
賛同するも否定するも共有するも転送(RT)するも自由。
「同志」を保つも解除するもまたマイラインに入れるも自由。
すべてはワンクリックに委ねられている。
自分の思いを文字にするという行為が広がる理由は、その「狭い自由」があるからだと思う。
人は自分が可愛いし、しかし仲間はずれにされるとかなしい。
同意を得ると嬉しい。その単純で明快な心理を組み取った恐るべきネットツールが、twitterだった。





2011年11月29日火曜日

可愛いおばさん

おばさん、とは失礼なことばにきこえてしまう。

しかしここで言うおばさんとは、けして不愉快だったり中傷する目的で指すわけではないので赦して欲しい。
私はよく行く公共浴場で顔を合わせるおばさんがいらっしゃる。
お姉さんと言われる年齢ではない。

しかし、可愛いのだ。
敢えて言うなら、チャーミングという可愛さ。
いつもにこにこしながらお花のタオルを細く白いからだに巻きつけている。
セクシー、や妖艶、ではなく、可愛いのだ。

彼女はおそらく45歳くらい。(私の推定ですが)
子どももいる。ほかの主婦たちとは、明らかに異なる「可愛いオーラ」。
初雪のように白く、は言い過ぎだけれども、
体全体が白く、うさぎのようなくりくりしたおめめ。


私がオバさんになっても

本当に変わらない?

とても心配だわ

あなたが

若い子が好きだから



この歌が大好き。
若い子の可愛いでは全く出せない可愛らしさを見習うべく、
私はあの浴場へ足を運ぶ。

2011年11月28日月曜日

イギリスのおしゃれなよにんぐみ

もちろんBeatlesのことである。
わたしの父が好きで、よく書斎からは曲が聴こえた。
MICHELLE,
All you need is love, yellow submarine, Love me do,
Hey Jude、、、

ジョンが亡くなったのは、わたしの生まれるすこし前だった。
しかし母はまるで知り合いかのように、その死を悼んでいた。
「そんなにすごい人だったの?」
「音楽の才能のあるひとだったのよ。」
子どものころのことで明確には覚えていないが、そんな感じのことを言っていた。

私はその彼らについて何かを語れるほど、何も知らない。
しかし、「素敵な曲」だと感じることはたしか。

ある日、とある雑貨屋でこどもたちが歌うBeatlesを聴いて、なんて可愛いの!
すぐさま店員さんに、なんていうグループですかと聞いた。
すると店員さんは言った。
「有線なんですよ。イングリッシュキッズチャンネルという」
私はがーんとし、ネットで調べてみるものの、女の子の歌うものが出てきた。
こどもはこどもだが、聴いたのより少し上手い。ちょっと違うんだよなぁ。
もっと「ザ・子ども」って感じのBeatelsなの。

するするそのことを忘れていたある日、品川の雑貨屋さんで、
出逢った。

"kids Bossa presents"

買ったのはつい先週の話しですが
以来、毎日掛けている。
和む、とはこのことです。
おしゃれなよにんぐみに、感謝。
彼らには永遠に、横断歩道をスタイリッシュに横断してて欲しい。




2011年11月25日金曜日

損得

私の先生はよく言う。
「もうわたしはね、損得とか考えないよ。下心とかなんにもないよ。きみにうまくなって欲しいだけよ」
先生の笑顔はほんとうにきらきらしている。
先生のお孫さんは私と同じ年齢。私を孫のように可愛がってくれる。
私は先生に出逢い、
なにかを超えたら「損と得」という意がなくなるのではないかと思った。
何かとはきっとすごい数のハードルやら壁やらのこと。先生は得も損も重要視していない。
ただ私がうまくできたときに、満面の笑みでわらってくれる。

続けることだね。
継続は財産なり、といっしょの先輩は言った。力なり、ではなくアセットなり。
しかし財産を、得なしにばら撒いてくれる先生は、
ほんとうにでっかい何かたちを、超えてきたのだわ。

私もいつか、と言うは易し。
継続。まずは継続。

2011年11月22日火曜日

おとなに

なったら、わたしは何をしているのかなぁと
やっぱり子どもの頃私は考えていたと思う。
幼稚園の「しょうらいのゆめ」の欄には、
お決まりの「おもちゃやさん」と書いてあったのを記憶している。

トイザラスにお勤めしている方で、
わたしと同じ答えを、「しょうらいのゆめ」欄に書いていたら、完璧なかたちで叶えている。
やきゅうせんしゅ、と書いていた野球少年がリアルにプロ野球選手になってしまったら。

人生がまぁ野球だとして、1イニングが10歳だとして、パーフェクトゲームを達成できた人間選手っているのかな。90歳で完封?でもそれってあまり人間っぽくはない。
第一野球に例えたら対戦相手がよくわからない。
もう一人の自分?

だとしたら、今は完璧負けてるわたし。

勝たねば。

2011年11月20日日曜日

Blue


私は一番すきな色は水色。
ターコイズブルー。
ものに関して、浮気性のわたしですが、
どうしてもその色を選んでしまうので、
私の本能はきっとその色を愛しているのだと思う。
ブルー、とつく色、が世のなかには多いのだった。

レイニーブルー。
ティファニーブルー。
マリッジブルー。
スカイブルーに、ディープブルー。
マタニティブルー。
世界中の女子の話題をさらった
ケイトミドルトン妃が結婚会見で着た、イッサロンドンのドレスの
ロイヤルブルーは2011年に限り、
「プリンセスブルー」。

でも共通して持てるブルーも世のなかには存在する。

某ねこ型ロボットブルー。
男は黙ってハイライトブルー。


「#から始まる6ケタで言ってよ?」
なう的に言うと、facebook-Blue="#3c5a98"?
twitter-BirdBlue="#24bff5"??
言えないよ。そんなの覚えられないわ。

色責めの話しのわけは、
「色盲?」と言われたことを思い出したから。
ちょうど一年くらい前に、一緒に六本木の美術館に行った方に。
その人が暗いとコメントした画を、私は暗い画とは思えないと答えた。
それは色覚異常ではなく、感じ方の違いだ。
好きな色は、その人によって全然違う。
情熱の赤が好きな人もいれば、漆黒のひともいる。
それこそ十人十色な。

でもわたしがシャガールの描いたブルーが好きなのは、
彼の描いた画に馬が飛んでいたから。
お空に飛んだ馬や牛の、お目目はきらきらしていた。
あんなに深い「青」をみたのは、
きっと初めてだったと思う。

2011年11月19日土曜日

why?

「なぜ?」と、
ピノキオはジェペットおじさんにしつこく聞いた。
なぜ、と聞くことは、その答えが知りたいから。当たり前のことですが、そうでもない世のなかみたいです。自分で調べなさいと。すぐ「出てくる」でしょう、というわけです。

生活をしていくとなぜだろう、と思われることに多々遭遇する。しかしそれはハードルなんかじゃなく、湧き出るお水のようなもの。どうしてこのひとはこんなに暑いのに長袖を着ているのだろう。どうしてこの人は頭にうさみみをつけて地下鉄に乗っているのだろう。どうしてむじなそばと言うの?なぜ空は青いの?なぜ電柱に頭をぶつけるの?

Why?

Why not me ?

そこにも、そのこたえにも、きっとたくさんのアンサーが在ると思う。
それを受け入れることは、自分のどこか欠如を認めること。それに伴って自分の敵の優位性を認めることでもある。自分の足らない部分を、埋める努力。いっぱいある。そして増える。

人間は、不完全な生きもの。
だから、向上する生きもの。
覚えること。努力をすること。前に進むこと。力強くいようとすること。

あんなにも輝いている人を、
私は別な角度から見てはいけない。

どのみち完璧な正方形にならなくっても、その形に近づく、という気持ちがだいじと思った。
Why?
こたえにくい質問は、するべきじゃない。



2011年11月14日月曜日

母からの手紙

私の母は、手紙好き。
メール手段がない母は、私に手紙をよこします。
内容は、以下のような「日常の」こと。

猫がひなたぼっこの位置を変えた。
おじいちゃんが蟹をとれなくなった。
近所の建設現場が撤退して淋しい。
紅葉が満開。

私がことばが好きなのは、母の影響だと思う。
彼女は確かに毎日文章を読んで、なにかを書いている。私は子ども時代のことを思い出す。
留守にすると、うちの母は殴り書きのメモ紙を、食卓のテーブルに置いてゆく。
書道に携わっているのに、あまりのスピードで書き綴るため、字が連なりすぎるのだ。

わたしたち兄弟は、よくそのことについて文句を垂れた。
そうすると母はむくれた。

私は上京してからも母からの手紙を読んでいると、すごいスピードで書いたのだろうなと感じる。
しかしあるときたまたま母からの手紙を鞄に入れておいた私。
知り合いの大学の先生に冗談にして見せた。あまりにも連なり文字で読めないときがあるのです、と。
すると先生はおっしゃった。
「綺麗な字だな」
私はふと葉書に目を戻す。

先生に褒められた母は、きっと口に手をあて喜んでいる。

2011年11月11日金曜日

替わってゆくこと

ひとは替るものだと、だれもがしっている。
私はそれについて、幾ときも考える。朝はあのひとのことを考えて、でもあの人じゃない人と話して笑って楽しくなってしまったら、つぎのひの朝はあの人じゃない人のことを。
そうじゃなければ頑なな心の、熱心さに私は脱帽する。

律して私はここに存在を余儀なくされ空気を吸い、吐きだす。
ああ、明日は晴れるかしら。洗濯をしたい。白い壁を、何かべつな色に塗りたい。

でもきっと塗ることはないことを知っている。
だって賃貸なんですもの。ただの空想の範囲。私は助け舟を求めて、女子のいる場に同席をする。
お腹が痛いわけではないけれど、ただ曇った夜空を一人して帰ると、背後を歩いている足音が気になって仕方ない。安全な日本、凶悪犯罪は今や廃れている。
ただ、替わっていくことは、さみしさを持ち、共感でき、そして向上心の糧となる。

成長の著しい?
人にとって、そんな素晴らしいことはないと思う。
ただその伸びを成長と評価するのは、あくまで第三者だった。
鉄棒遊びをしていると、自然に背骨が伸びると聞いた。なら毎日鉄棒トレをするべきだと。
成長したい。




2011年11月7日月曜日

からさ

私は辛いものを求め、それでいて辛いものを食べると、やっぱり苦手かも知れない、と思う。
刺激、をほっしているわけではないと思う。
でもカレーが食べられるようになったのは、大きな邁進だ。

そんなにも、こんなにも、日本人は辛いものを求める国民ではない。
でも辛いものを食べる前のわくわく、は、ジェットコースターでトップまで登りきるそれに少し似ている気がする。
ちげ、だの、ぷて、だの、ぎょぷ、だの、韓国という隣国の、私たちのおっとり国に染み入る度胸と、あんなにも家族を大切にする教育環境。宗教、だけではなく、きっとホームの暖かさは、とても強いものと思う。離れてはいるけれど、
切ることはできない血の色は赤。
赤は暖色。

目黒駅のグンちゃんという居酒屋にて、濃ゆいお顔のぐん様ポスターで埋め尽くされた壁を見ながら、飲みながら、私はそんなことを考えていました。

2011年11月4日金曜日

ORANGEにまつわる

講師の先生が言った。
「オレンジが嫌いな人っていないですよね」

ぎくっ、と、思った。
私はオレンジ色が好きではない。
嫌い、なのではない。苦手な色なのだ。

私は夏、カラフルなTシャツだのワンピースだのをわざとチョイスして着る。
それは、「冬だと茶色や黒のなかで浮くけれど、夏は派手派手な色でも浮かないよね」と誰かが言っていたのを聴いたとき、私は妙に納得した為だ。そしてアパレル営んでおられる知り合いの方にこうも言われた。
「君は顔が地味めだから、ピンクだの緑だの着てみるといいよ」
それも妙に納得した。以来、服屋に行くと私は、大好きなブルーや茶色以外の色とも目を合わせるようになった。しかしクロゼットの中に、オレンジ色をした服は、一枚もない。下着ボックスにも、くつ下ボックスにも、その色は存在しない。

朝、私はオレンジを食べることがある。
前の日に買っていたら、の話し。
ジューシーで、みずみずしく、しかし甘みがいやらしくない。
オレンジという果実は大好きだ。
しかし持ち物やお洋服で、オレンジとなると・・。

奴が、時たま、おしゃれな色、だということも認知してはいる。
差し色として ORANGE がすっと入っている場合。

要は悔しいのかしら。奴がグッジョブをするから?
ノウ。
そうじゃないの。
ジャイアンツカラーだから?
私は某竜ファンだけれど、そうでもないの。

オレンジは、ハッピーという単語を想像させるから。
根暗な私は、あきらかな明るさに、とても弱い人間なのです。

2011年11月2日水曜日

地鶏にまつわる


最近、知り合った人との会話。
A「君はどこ生まれなの」
私「秋田県出身です」
A「へぇ、じゃあ比内地鶏を知ってるか」
私「もちろん知っていますよ」
A「あれは美味いね。びっくりしたよ」
私「私、比内地鶏を食べたことがないんです」

するとAさんは、その鳥についてを教えてくれた。
「純系」比内地鶏は、「食して」はいけない。
純系というのは何も混じっておらず、その比内のみで
成長した地鶏。天然記念物だという。
一般的に出回っている比内地鶏というものは、
一種のブランド名で、例えば千葉産比内地鶏というのも
比内地鶏として売られているのだそう。

Aさんは、鳥に詳しかった。
A「じゃあ、君、君が食べている卵をちょうどいい温度で
愛を込めてあっためたら、どうなる?孵る?」
私「うーん」

彼は、君がもし食べる生卵は無精卵だから、いくら愛を込めて
あっためたって、孵化しないのよ。
有精卵、無精卵ということばを私はすっきり忘れていた。
そうだ、ニワトリは交尾なしに卵を生めるのだった。

卵が特に大好きというわけではないが、
炊き立ての新米ごはんにかけた、生卵の黄色い幸せは、
他のフードには替えがたいと本気で思います。

もし、
炊き立てのごはんのうえにヒヨコがぴよぴよしてたら?
ホラーだけれど、無邪気なこころでそのヒヨコを撫でてあげたい。

2011年11月1日火曜日

象にまつわる

その昔、奇かいな姿をした男がいた。
人は彼をこう呼んだ。”Elephant man”.
と、いう映画(1980米・英)を観ました。

エレファント・・確かに象さんの鼻のあたりの皺、は美しいものではない。色もダークに近い灰色だし、キリンのような縦に伸びる優雅さはない。エレガント、に言葉は近いが・・
エレファント・・でもなんだかそんなふうな、今風自由の象徴な映像を、私は観たことがあったと思った。思い出した。
”Elephant”(2003米制作;ガス・ヴァン・サント監督作品)。

高校内大量虐殺事件をモティーフに、ティーンエイジャーの葛藤を描いたお話し。黄色いTシャツを着た男の子にちゅうをするポスターが、頭に残っていた。あの頃の私は今頻度よりもっと映画等映像を眺めていたが、私はあまり共感した記憶はなかった。10代の頃の、これ、この気持ちは一体どこに投げたらいいのよ、という叫び声は、思わず枕のしたへ。男の子は金髪にしてみたり、女の子はアイライナーを使ってみたり、レースのついたパンツを買ってみたり。
背伸び、はいいことだ。
でもその叫びのいきどころを、真剣に真剣に悩んだあげく、彼は狂気を持った。

象?なぜ象?

背伸びじゃなく、伸ばした鼻の先に、うつくしい未来があるかしら。
エレファントマンが美しい母の姿を月に重ねる。
フレデリック医師の美しい奥さんに会い、彼は言う。
「こんなに美しいひとに優しく接してもらったのは初めてです」


ひとはやっぱり、「美しいもの」に憧れ、求める。求められた美しいひとやものだってきっと、己よりさらにうえをいく美しいものを憧れとしているのだと思う。

詩編23:4
たとえ深い陰の谷を歩もうとも、わたしは何も悪いものを恐れません。

陰の谷を、彼は歩き続けた。でもその谷を歩くには、何らかの光があったからでは。だいじにロケットに入れてあったうつくしいお母さんの写真。光、はどうしても、うつくしいもの。

2011年10月30日日曜日

お金にまつわる

「LEVEL THIRTEEN」というタイ映画を観た。
仕事がくびになり、弟の学費も入れなければならない、お金が欲しくてたまらない主人公のもとに届いた「13段階のゲームを突破すれば、1億バーツがあなたのものに」という電話。

最初は半信半疑であるが、実に自分の口座に振り込まれるやいなや、犬も殺すし排泄物も飲み込むし、井戸に入り、ミイラを助ける。ここまで極なことを、「お金の為にできるか」。
ただ逆を言えば、お金の為にだからできる、ことばかりかも知れない。ただ地位や名誉や善意だけであれば、そんな酷なことは人はできないように思う。どうしてお金が生まれたの。確かに生きていくにはお金は必要。とってもとってもだいじ。
でもお金の為に、親を殺せる?

ラストで主人公の幼少からの父への憎悪と愛情の境をこんがらがせた感情がこっちにも伝わった。
しかし、現実は、こんなもの。
作り手のあまりの虚無感に、私は反論の一行もみつからなかった。

2011年10月27日木曜日

瞬間、迷い

この世界に生活しているなら、どこかの瞬間にも迷い、どちらかを選択する。選択肢が三つだったとしても、5つだったとしても心の本心で悩むのは結局二つのうちのからじゃないかと思う。
その選ぶ瞬間は流れまかせな場合も、選択の余地のない場合もありえるだろうし、ええいっこれに決めたって場合もある。

2006年の米映画「Little Children」という映画を観た。いたずらなキスから、欲望を隠せない不倫に変わるふつうの男女。おたがい大事にしている家族と家庭がある。
「悪いことをしていると思う?」
挿入しながら、彼は彼女に聞く。
「僕は思うな。悪いことをしている」
しかしその「悪いこと」の発端は、ブラッド(彼)ではなく、サラ(彼女)のほうだった。問題は悪いことと思うかどうか、ではなかった。アメフトのフィールドの上で、サラの洗濯室で。

しかし物語りは、瞬間によって次の瞬間が変わる。その流れがスロウで、ああこれが現実なのね、と。夫の部屋の扉を開ける瞬間。うっとりする話しをして隣の男性を振り向いた瞬間、赤い水着を着て、サンスクリーンを塗って、と言われた瞬間。司法試験を回避する決意をした瞬間、自ら去勢した変態のダイナマイトを目にした瞬間、初めてのスケボーで空中を飛んだ瞬間。
この映画のさまざまな瞬間を、わたしは目撃した。
迷いが、それからの未来を変える。小さいことが、大きいことに繋がっている。だからセレクトミスを悔やむ。

「渇望していたの。」
「彼女は戦うことを選んだ。」

サラの気持ちが、わかるようで、全部は解らなかった。
私はまだまだの人だ。
勉強しないと。



2011年10月25日火曜日

このまま

このままくらくらとした空間を弾かれないまま、私はそっち側へ渡ったり渡きらなかったり。そうしているうちに、ただ単にそれが気持ちのよいこととして、肯定しているだけだった。
そういうふうなときに一気飲みしたくなるのが、クランベリージュース。コーラでもピンクレモネード、でもない。ぐあーっと飲んでしまうため、その勢いが有り余ってしまうため、床に零れる。
しみ、になってしまうでないの。

それが一番怒られる理由。

私はただ、喉を潤したかっただけ。でも違う。色は紫で、クランベリーはレッドだった。
冷蔵庫がミスをおかした。れい、れい、れい、れい。きん、きん、きん、きん。
特に冷やして欲しいのは、牛乳とチーズだけ。牧場のなきごえ。
夜がいつも通りなのか、サンセット大通りなのか。いらついた少年の心のように、イソギンチャクのすばしっこさのように、明日が来るなら来るで、早く日付が変わればいい。


明日は、水曜日。



2011年10月23日日曜日

Wave


We are always swimming in the waves.
Some people can predict the degree of that wave.
I can not make it.
I swallowed a wave,
Sink into the waves to swim wave.
Oops, look at that hat and waterproof watch it again this time.
Because I'm floating towards the top and go for doodling.
Back to the surface.
Today the waves were rough.
I get sleepy.
He is strong.
I feel like he is drunk.
Sandman and waves are very similar.

So what do you think of the wave.
I fawn over the waves.
I want to be alone soon.
You wanted to be one soon, I will do that
Thinking also go swimming in the waves.
But really want to do other work.

Born into this world "WEB" to the dreadfulness of
the system that, today is his witnessing these days.






2011年10月22日土曜日

猫好きの人好き

私は断然犬より猫派。

facebookでお友達になった人が超が三ツつくくらいの猫好きの為、タイムライン上は猫ちゃんの画像で溢れている。FB開いた時点で、にゃーにゃーの声が聞こえてくる。
猫はいい。
すきなときに寝て、すきなときに起きて、すきなときに食べて、
特にお手手をひとさまの手に預けたりしなくても可愛がられる。

ふと思ったことがあった。
猫を好きな人は、「人」を好きなんじゃないかなぁ。それは猫を可愛がる人を、というよりその人が身近で生活をしているうごくものに対して何らかの愛情が感じられたから。
犬の場合、自分に懐く犬を可愛がる。当然だわ。
でも猫は、飼い主にしっぽを振るとは限らない。しっぽのない猫を飼っていた。
私の大好きだったその猫は、生まれたときからしっぽがなかった。
だからママが選んだのだ。
ほかの3匹は川に流された。

長いしっぽに憧れていたのかな。
道路の真ん中に、堂々と寝る猫だった。車とかあまり気にしない猫だった。
かりかりの銘柄を、選ばない猫だった。
にゃあとあまり鳴かないことに長けている猫だった。

名まえは「チロ」といった。



2011年10月21日金曜日

危うさ

最初に申し上げますが、私はロリでも危ない感じでも何でもありません。



朝、私はよく、ある男の子とすれ違います。
恐らく小学二年生位。
その男の子はランドセルをしょって、いつもとてもだるそうに歩いている。
それがすごく可愛いのです。
かわいい顔をしているのですが、その子はいつも斜め45°下を見て歩いている。
夏にはぱんぱんの水泳バッグをぶらぶらさせながら。
けだるそうに。

今朝は、目をこすりながら。
とっても眠たそうで、そのだるさが、すごく愛らしかった。
その愛らしさが、危うさに近いと思った。あやうさ、という言葉を思い出させるこどもっぽさ。
敢えて例えるなら、飼い猫がけだるそうにしている感じ。

その子とすれ違うことができた朝、わたしはすこし、嬉しい。

2011年10月19日水曜日

首振り三年ころ八年


私は津軽三味線を習っている。
と、はっきり言える程演奏は、まだまだまだまだぜんぜんできない。
しかし先週民謡大会に参加をさせていただき、
初めて「生尺八」の「生演奏」を聴いた。

めちゃくちゃ感動した。
響くんですもの。

胸のほうに響くのだ。
擬音が説明不可能で残念なのですが、
口や言葉で説明するものではないように思う。
「本当にいいですね」
と、思わず先輩に言うと、先輩は言った。
「首振り三年、ころ八年よ」

意味はその言葉通り、
尺八を吹くのに、首を振って音の加減ができるようになるのに3年、
さらにころころという
心地の良い音が思い通りに出せるようになるまで8年かかるという意味。
あいた口と目が、なかなか塞がらなかった。

単純計算で11年。
4017日。でもきっとそれ以上。

わたしも、初めてのお稽古日に、先生にこう言われたのを
思い出した。
「三味線は一人前になるのに10年はかかる」

3602日。
あと3298日で、私は一人前として認められるかしら。
私が、人として最も尊敬するK先生に。

2011年10月18日火曜日

Mr.ポスティングとの友好関係を築く

ポスティングされている方が、がしゃんと私の家のポストにチラシを投函する。その瞬間、その横を挟み入って近づくわたし。部屋の玄関に向かう私。当然目が合う。

気まづい。

かなり気まずい。

しかし、向こうも仕事中であることを、私は十分理解している。
その二人にどちらが優位、ということはない。
◆私は一刻も早く家に着地したい。
◆彼は一刻も早くこの世帯のポスティングを終え、次の物件に行きたい。
合致しているようで、していないようで、している。
最良の措置は、無視、かと思う。
いきなしフレンドリーに、「ごくろうさまでーす♥」と言われたなら、向うの方はいらっと来るに違いない。

しかしその気まずさを、どうにか友好的にできないものか。
フェア、であること。条件はそれだけで充分に思う。
ポスティングされる方が、白ヤギの着ぐるみを着て仕事をしたらどうだろう。
そして私がカエルの着ぐるみを着て、家に「帰る」。
白ヤギさんはおてまみを届けるのが日課として認められているし、
カエルはカエルで、家に帰るべき両生類だ。

疑問は湧き出る。
湧き出た疑問発で、そのチラシが読まれたら誰得かという疑問に、白ヤギ得、ではなく白ヤギを雇ったポスティング人材派遣会社に依頼した、おおもとなんだなぁ。
世のなかはそういうヒエラルキーで、もう!
でも、生きてるだけで丸儲け、とさんまさんが言ってたよって、友達が言っていたことを思い出して、
今日は、わたし得。

裏は黒ヤギなり♥


2011年10月17日月曜日

Only on Mondays


今日は月曜日。

月曜日は気が重い。
朝の電車に乗るひとたちもうきうきな顔はしていない。
しかし、わたしの大好きな邦画で「月曜日のユカ」という作品がある。
ユカはめちゃくちゃ可愛い女の子で、
妻子持ちのパパとのデートは、接待で忙しい週中と家族サービスで
忙しい週末ではなく、「じゃああたしは月曜日」と言った。
これってこれって
めちゃくちゃ可愛いじゃないか。
そんなけな気でいじらしさを持った女の子に憧れる。

2001年のフジテレビの「水曜日の情事」というドラマを、
私は大好きで毎週欠かさず見て再放送も見ていた。
つまるところ、不倫の話しなのですが、
ここでは不倫を肯定する主旨なのではなく、
男女には、「その男女間にのみ成立する特別な曜日」が存在する。
それはすごく面白いし、大人になってからのわくわくする取り決め。
(決まっていない場合もあると思うが)。

確かに月曜日をそういう「大人の曜日」と設定できれば、
一週間はハッピーな幕開け。
火曜日はファンデーションが要らない女子も増えるかも知れない。
さらさら、嬉しい一週間になりますように。

2011年10月15日土曜日

浮遊すること

浮遊する

浮遊する

ふわふわと ふわふわと ふわふわと

浮遊する


そして落ちた



そして旋回する


たった何十分か前の出来事だった。




8月に、たった一度だけお会いした方が、
その二週間後位に死んだ。
私の知人の、親しい人であった。
白いベッドの上で彼は、こう言った。
「死んでたまるか。俺はこっから抜け出すぞ」、と。

とつもなく強い、強い生き欲だなと思って、思わず涙が出てきた。
病室を出るまで、病院を出てからも、
彼の強い「生きてたい」欲が、頭から離れなかった。

ふっと何か落ちる感覚にあうと、
その彼を思いだしてしまう。
わたしは、彼の名まえしか知らない。
でも今まで出逢った人間のなかでいちばん、
生きることに対しての貪欲さを感じさせてくれたひとだった。


2011年10月14日金曜日

リンクとシンクロ

わたしはリンクとシンクロをよく間違える。
リンクする=参照する
シンクロする=同期する
ウィキ兄ぃにはそう説明を受けた。

私はよく人の話しを聞いていないと忠告を受ける。「ねぇ、聞いてる?」と話している相手に尋ねられ、
「あらら、ごめんなさい。どっかにシンクロしちゃってたわ」と答え、ああまた間違った、その場合リンクだった、という具合い。少しお付き合いした男性に、「お前と付き合う人はよっぽど寛容な人でないと無理だろう」と言われたことも思い出した。私だって好きでリンクを滑っているわけではぁ、ない。でもごめんなさい。

あなたと合体したい、とゆうぎょぎょっとなるぱち台のCMがあったが、それはシンクロしたい、と置き換えてもOKでしょうか。同期する、とは同意見、賛同する、いっそ、いっしょくたになる。でも思考だけか。いえいえ、シンクロナイズド!英語だった。スイミングだった。ウォーターボーイズだった!でも合体、するわけではなく、やっぱりおんなし行為を、おんなしタイミングで行う、っていう意味か。
うーん。
例えば合同お誕生日会で、二人でバースデイケーキの火をせーの、で消すあれは、「シンクロファイヤーデリート」=SFDとすると、わたしが常に人の話しの最中にどっかへリンクしてしまうダメ行為を、「バッドリンク」=BL
ちなみにバッドリンクという言葉が存在するか検索してみると、「バッドウェア」という語句が出てきた。悪意ありきでユーザの害になる機能のことらしい。
もちろん悪意はないが、私が知らぬ間にまわりの大切なひとびとの”BW”にならないよう、気をつけたい。

2011年10月13日木曜日

セーラー服を脱がさんといて

今さっき、セーラー服のJKをみた。
おっと思った。
っていう完全おっさん視線なのではなく、私は学生時代6年間、セーラー服だった。

でも上京したら、セーラー服の高校生をみない。なぜ?
東京の高校はだいたいにしてブレザー、または私服でなんちゃって制服なのか。都会だ。

セーラー服を脱がさないで、という歌詞を思い出さずにはいられない。
脱がさないで続けて、という意味にも聞こえる。
いいな。制服っていいな。

わたしたちは若い、と女子高生のときの私は豪語していたけれど、
そういうアイテムのなかの、ダントツトップは、やはりセーラー服だった。
セーラー服には、たっくさんの思いでがあるけれど、
こんな枠で、それらを書くことはさすがに出来ない。

2011年10月12日水曜日

満月の夜に思うこと

今夜は満月だった。
幻想的だった。

月、があまりにその淡麗な容姿の為、昔からおとぎ話や神纏わる話しの格好の餌食にされているが、果たしてそれは正しいことか。実は嫌がっているかもしれない。わたしのなかで、月の性格はとてもシャイニング。理由は地球から見える白光りは、太陽光を反射したものだったから。月は控えめな性だと思っていた。

しかし太陽、よりお月様、のほうが現実にはない想像をふくふく膨らませることは納得する。フルムーンに狼男が狼になって悪さをする、だとか、輝夜姫が月に帰国する、だとか。
満ち足りた月、は人のダークな底辺部分(本性?)をひっぺがえす素質があるのか。

だったらわたしは、満月じゃないほうがいい。
いきなり悪に満ちた自分が、血だらけの口元を拭く。怖いじゃないの。
でも大好きな映画、「E.T」の、チャリで夜空を飛ぶシーンは満月だった。ああよかった。満月が悪さを引き出す確立が100パ-じゃなかった。

2011年10月11日火曜日

浴欲

わたしは、一日のうちで一番大事なことはお風呂の時間。どんなに酔っぱらって家に辿り着いたとしてもわたしはお風呂にお湯を溜めている。頑張って入って、そこでうっかり爆眠してしまい、ごぼごぼごぼという自分が水没する途中ではっと目が覚め、ああ生きててよかった、という経験が何十回もある。それはもはやわたしの本能が、お風呂に浸かることを求めているからだと、私は一人暮らしをして初めて気づいた。

欲、の一つなのだわ。

わたしは性欲、睡眠欲、それに食欲はできるだけ欲求のままにさせている。だからあまりストレスというものを感じない。ひとの三大欲と言うのは聞いたことがあるが、わたしはそれと同じ位、「浴欲」を感じる。四権分立。

川に住んだら?
でもそうしてしまうと、きっとふにゃふにゃにふやけてしまうだろうし、きっと陸を求めてしまう。でもかぴかぴに乾いたら、私はきっとまた水のあるところに、「浸かる」を求める。
浸かる、を仕事に出来たら。

わたしの人としてダメな所は常々そんな怠惰な考えを浮かばせている所。

2011年10月10日月曜日

空き容量

ユニバーサルスペースとはどのようにでもなりうる自由なスペースだとミース・ファンデル・ローエは定義した。その 空間  はフラットな床と天井という二枚の水平面から構成された完全に均質な空間で、その空間を利用する主体が、簡単な間仕切りを使い、自由に家具を配置することによりその空間のキャラクター、ファンクションを自由自在に作り上げていく。物(パーティション、家具)は欲望に屈するが、建築は欲望に屈してはいけないというのがミースの唱えるユニバーサル・スペース(無限定空間)の理念であった。厳選されたより少ないマテリアルにより、より豊かなる空間が作り出されるというそれまでの型に填った空間概念を打ち砕いたと言われている。

この考え方 -内部空間を限定しない -ことで自由に使えるようにしよう- は、
ものづくり(とくに芸術とカテゴリなされる分野)に留まらず概念利用されている。余計なものは取っ払おう、そうしたらその空いた空間に新たな活用法が生まれる。
PCに関しても、私はそのような忠告を受けたことを記憶している。Cドライブの空き容量が減ってくると、動作が遅くなり動きの不安定につながる。はっとした。PCも人と同じ思考を持っているのね。

物事の「空き」を推奨する歌詞で思い浮かんだのが、神アニメ「ドラゴンボールZ」の主題歌、影山ヒロノブさんの歌う「CHA-LA HEAD-CHA-LA」である。歌の後半にこう歌詞がある。

頭カラッポの方が 夢詰め込める


そう、頭(脳内)に関しても「空き」があることにより、その空間に新たなもの(ここでは夢)が入るということ。ぎちぎち脳に、豊かな想像力は湧き出てこない。
素晴らしい歌詞だと思う。

余地、というのは心のゆとり、やスケジュールの空き、とはまた異なるとは思うが、余裕がある、ことはその分新たなものが生まれる可能性を生み出す事なのだ。
 
余白があること → スペースを保つこと →   →
                                ↓
                         ユニヴァーサルスペース

わわっ。
やっぱしこういう材料についてを考えていくと、どうしても行きつくとこはミースの言葉なのだった。

2011年10月9日日曜日

ブリ-ジ-

わたしの好きな単語、に、ブリージ―というのがある。
しかし意味がわからない。ただその名前だけをしっている。
ふと思い出してしまった為、ネットで見てみると、ブリージ―さんというバイカーさんたちの情報が上のほうに出てきた。違う。単語の意味を調べると、「そよ風の」だとか「陽気な、」だとかそういう柔らかな心地よい天候の意味が出てくる。違う。

わたしが思っていたブリージ―はもっと悪どい。

デビルのような目つきと容貌。しかし彼は強い。あ?男か?
いや、朝だからちゃんと出てこない。彼はとてつもなくシャイニング。あ?やっぱし男なのか。

ブリージ―はたまに私の脳裏、とくに右脳近郊に出現し、私を虐める。
やめてください、と私は懇願するが、彼は私を痛めつけ、
私は良いアイディアを思いつく。
「そうだ、あまり使っていないmacのうえに、ドイルを置いたらどうだろう」
私はユキヒョウの人形を飼っていて、名前はドイルと言う。(「25時」から頂いた)。
最初は女の子らしくベッドの枕もとに置いて一緒におねんねしていたが、いつも朝になると彼はいなかった。ベッドと壁の間に挟まれ、とても可哀想なめに。
どうしたものかしら、
    ドイルのべスポジは・・・


Dear ブリージ-さま
いつも私に閃きをありがとう

こんなふうに感謝されると彼は今度私の前に現れたときには
もっと私に暴力をふるう。
しかしもっと素晴らしいアイディアをくださるのだ。





2011年10月8日土曜日

おくびょうであること

わたしはどちらかと言うとおくびょう、だと思う。
と自分から進んで発言しているあたりからとんだチキンだ。
チキンにしては、私は焼き鳥屋が好きで、目黒通りの鳥芳というお店によく行く。
感覚友喰いである。そこのつくねが大好き。

チキンの話しは終り。
違う。これからだった。私はどうしても人と話すときにその人が私の敵になるかもしれない、と思ってしまうときがある。動物の真っ直ぐな視線が怖いのだ。視線の先に、その眼球の真ん中に位置しているのが、どうかわたしじゃありませんようにと願っている自分がある。
わたしは子どもが苦手な理由もそこにある。

子どもの視線は真っ直ぐすぎて、私はそのピュアさに逃げてしまいたくなる。
しかし最近、サングラスをしていた私をにやにやして見てくる女の子がいた。歳は4、5歳ほど。女の子はどう捉えても私のことを見ているので、しまった、ぐらさんの中までオミトオシかっ、と焦った私。純粋生物に攻撃する術をしらないわたしは、手がないので同じように、にやっと返してみた。すると、その女の子はもっと大きな口を開けて、白い歯ならびを見せてさっき以上の「にやにや」を返してきた。

完敗だった。
でもその敗北感はとても爽やかだった。


2011年10月7日金曜日

キキへの憧れ


私がジブリ映画のなかでのベストワンは、昔から不動で、
「魔女の宅急便」です。


キキは魔女。
名まえのある魔女で知っていたのが、彼女しかしいなかった為、
私は魔女に対して良いイメージを持っていた。
だから魔女になればほうきで空を飛べるし、
おしゃれなよその町に住み込みで、
なんだかめちゃめちゃ美味そうなミルクのお粥を出してもらえるし、
ジジという可愛い黒猫が飼える。
何より黒い服にでか過ぎる赤いリボンが羨ましかった。


なにかよくないもの-けだもの-闇的なもの-おそらく頭蓋骨とか-を
でっかい鍋でぐつぐつ煮詰めている魔女。
何が怖いって、常時沸騰してる所です。

ぐつぐつぐつぐつ
ぼこぼこぼこぼこ

彼女の目的はわかりません。
でも彼女は黒い服は確かに着ていたけれど、赤いでかリボンは
装着していなかった。
あれが可愛いのだ。キキは。

でかいリボン、という点で現実的に思い浮かべるのは、辻ちゃん。
モーむす時代に彼女が二児のママになるなんて想像もしなかった。
でも辻ちゃんはピンクのイメージ。
色が「赤」に意味がある。

ナウシカを好き、という男の子は意外と多い。
しかし魔女の宅急便に関してはフェイバリットムービーの内に入れている
男女比は、圧倒的に女子だと思う。
「女子感覚的」にうっと掴まれる映画なのだ。

いいなっと思うシーンは沢山あったけれど、
ジジが話せなくなって他人行儀になったときが、わたしは一番かなしかった。

2011年10月5日水曜日

ミロちゃん


上京してからミロちゃん(今つけた仮名)という子と出逢った。


ミロちゃんはすごくちっちゃくって、やせっぽっちで、「りす」だった。






りすというのは、事実りすのこと。


よくミニマムで可愛らしい女の子を小動物っぽい、と形容されることがある。


しかしミロちゃんは完璧りすだった。


つねになにかをもごもごしていた。(しかもナッツ類率高)






ミロちゃんは常にお腹を空かせていて、何かぽりぽり系だったり


チョコレートだったりを見つけるとすぐつまんで口に持っていってた。


「さっきサンドイッチ食べてなかった?」


「食べた」


ミロちゃんはそのくりくりとしたおめめをぱちぱちさせて、そう答えた。


彼女はめちゃめちゃ可愛かった。






ミロちゃんはそのちっぽけな体の割に、聖歌隊のような声量を持っていた。


歌を(中島美嘉のバラード等)を歌う彼女の声の量を初めて聞いた私は思わず聞いた。


「ミロちゃん、その声は一体どっから出てくるの?」


「腹から。」






私は彼女とそれほど親しかったわけではない。


しかし、「秋」に入ったいま、私は彼女を思い出す。


「どんぐり」はさすがに食べていなかったが、


もしミロちゃんがぼりぼり食べているものがどんぐりだと知っても、


さして驚かない気がした。

2011年10月4日火曜日

sweet point

私はアイスクリームを朝食にしていた。
だがここのところ、寒いので、バナナにしようとした。
うちの母はバナナという食べ物を尊崇しており、「あれほどパーフェクトな食べ物はない」と言い切っていた。確かにすぐ消化する、すぐ剥いて食べられるし、味も申し分ない。早い安い美味いとの見解で間違いない。

私もバナナラブだ。特に腐る手前の、黒い斑点がぽつぽつしてきたあたりがどストライクだ。あれを「シュガースポット」と言い、あるかないかで、免疫増強効果が8倍も違うとの事。熟成、のシグナルだそう。私はそのシュガースポット、という名前を以前から聞いて知っていた。しかし、ある先輩とバナナの斑点の話しになったときに、その先輩は自慢げに言った。

「スウィートポイントでしょ?」
可愛い。間違ってるけど合ってる。そっちのほうが可愛い。
シュガーポインツ、もありだ。

何が言いたいかというと、バナナ様は優等生ながら、可愛さも兼ね備えている、ということ。
バナナハンガーにぶら下がった彼らがダルメシアンになる頃が、食べ頃ということ。そして私がクルエラになって彼らを一本一本剥がし・・・逆だ。バナナちゃんの場合、中身が必要なのだった。芸人さんでも何でもないわたしは、皮に用はない。







2011年10月3日月曜日

宇宙限定娼婦

妄想の時間です

ある知人が死ぬ前にしたいこと、という話題で「宇宙飛行をしたい」と言ったので、私は「頑張ってください」と応援の意を伝えました。すると彼はぽつりと言いました。
「しかし、あれだね。宇宙で性欲はどう処理するんだろうね」

私は考えました。まづ空気がおかしい。地球と、一緒、ではない。地球上と全く同じ行為は出来ない事と思う。
「宇宙空間では、性欲が沸き起こらないんじゃないでしょうか」
「いや、人間から性欲は奪えない」

彼は妄想を膨らませ始めた。
「もしかして、報道されていないだけで、向う空間の方がそっちが充実しているかもしれない」
彼に押されて私も少しずつ、妄想を膨らまし始めた。
アクロバティックさが充実?だって体が軽いんですもの。ウォーターボーイズなんてメじゃないわ。
イッツフリーワールド?寧ろ異星人と、そういう行為ができるかもしれない。
私はショッキングピンクのオクトパスが現れた時点で一度それらを中断させた。その時、知人は閃いたように、私にこう言った。

「君、宇宙で娼婦をやったら?そういうビジネスを始めたら?」


彼の妄想に、私はついて行けなかった。悔しかった。


背中の魅力

女性が、男性に聞かれて困る質問の一つに、「どんな男性がタイプですか?」というクエスチョンがある。私はこう答える。
「自分に自信のある人」。そして、「お背中の魅力的な人」。
お背中、とは文字通り背中のこと。何も天まで登り立つ龍や××滝に逆らう威勢良い鮭があることを指しているわけではなく、後姿のこと。バックが美しい人は、その人を魅力に感じる。

という話しのわけは、先日、銭湯でこんな光景を見かけたからである。
30~40代くらいの女性が、ご年配の女性の、背中を流していた。黄色いタオルで、円を描くように。
なんてことは無い光景かもしれないが、湯船に浸かりながら私はその佇まいに見入ってしまった。あら、なんだか美しい。そしてその流している女性が、そのご年配の方に敬語を遣っていたので、恐らく他人なのだと思った。背中とは自分の視界と真逆な位置にある為、気を許した人にしか預けることができない。おばあちゃんは、血つながらぬ優しき女性に、バックを預けたことになる。相思相愛という美学に通ずる気がする。

背中は語る。
おやじの背中。エースの背番号。見返り美人。バックシャン。背中子泥棒(いねーか)。
後ろ姿が疲れている人は、その周りの空気が重たい。早朝の山手線に多く生息しとる。
対して後姿がしゃんとしている人は、私はその人に付いていきたくなる。
駅裏のラーメン屋の頑固おやじの背中?
きっと汗びっちょりで、でもそれはめちゃくちゃかっこいい。その背中を見たあとなら、妙に黒ばんだ割り箸だって気にせずに割るだろう。

2011年10月2日日曜日

お酒の魔力

「お酒の力を借りて」ほにゃほにゃ、という言葉づかいが在る。
私も実は「その力」をレンタルしてしまう人である。私は人見知りと、緊張しいな部分があり、お酒の力を借りると素直にしゃべることが出来る事を否めない。
私の父もそういうタイプで、普段無口なのにアルコールが体にインした次の瞬間から、父は饒舌化する。

アルコールは恐ろしい。その力のせいで、私は前歯を欠けたし、何度も地球と喧嘩した。自転車も無くしたし、何度も血を流した。
しかし、また借りてしまう。
たまに「お酒は飲めないけれど、お酒の場が好き。だからそういう飲み会には参加するわ」という方もいる。そういう方はうらやましい。きっと翌朝にあの取り返しの突かない頭痛と、天井が回っているという奇怪な光景に遭遇しなくて済む。
しかし、また借りてしまう。

お酒が齎す効果には、ストレスの解放、催淫効果、本能の解放、といったものがあるというのは聞いたことがある。本能?解放させてっ、と願う本能ちゃんは、アルコールの逆襲を見ているはず。ということは、あんな失敗をしてもう飲まないと誓ったのにまた飲んでしまうそのアクドイ循環は意地の悪い本能がそうさせているのか。本能を勝手にSなイメージとする。私はその本能ちゃんに逆らえない。
よって、また借りてしまう。

素面、という言葉には美しさが感じられない。
私はいつからこんな大人になってしまったのだろう。アルコールの入った世界はすこしきらきらして見えることもある。それはきっと物理的に言うと、入ってないときに比べ確然として視力が薄れている為で寧ろ実際には歪んでいるはずなのに、あまり細かいことは気にしなくて済むという、「嘘っこの世界」。
私はいつからこんな大人に?

しかしいいこともある。人間、素直というのは大事だ。素直じゃないな、と思われたら女の子として負けな気がする。「酒は飲んでも飲まれるな」。ええ、その通り。でも飲まれる。飲み込まれる。お酒に、ではなく、アルコールの入った、空気に。なぜかというと、奴らはめちゃくちゃ偉大で信長もびっくりするような破壊力と、セクシーさを持ち合わせているから。





2011年9月29日木曜日

「努力は能力を超える」

中学校の時の部活のM先生がよく私たちに掛けた言葉だ。
部活動が嫌だった私は、努力をしていなかった。私たちの学年はすぐに敗退した。

努力をする、とは好ましい結果の為に、自分の全力を傾けること、とある。全力とは文字通り、ありったけの力、を意味する、とある。私はどうにか楽を出来ないかということに全力を注いだ。努力をしないことに、努力していたことになる。応援しがいのない選手だった。

私は高校野球を観る。甲子園に少量の涙する。そしていささか胸がちくりとする。それは中学校の頃の私のせいである。私はこの選手たちみたいに、全力プレーをしていなかった。白い球、土で汚れ茶色ばんだ白い球を、画面のなかの選手たちは全力どころか全力以上を出してプレーしている。私は見えない穴に、隠れ逃げたい気持ちになる。申し訳なくてしょうがない。

もしM先生が私のことを覚えていらしたら。私はさらに深い穴を探さなければならない。
それより先に、「生涯努力する」ことをみつけたい。そのあと、自分の声で、努力は能力を超える、と発音したい。

2011年9月28日水曜日

愛について語れるほど、私は人を愛した経験がない。
しかし愛おしい、という感情に、自分自身が気付くときが時たまある。ややっ、こいつ愛しいな。私はそんな時、この人と出逢えてよかったなと心から思う。自分以外、家族以外の誰か他人のことを大切に思うこと。そういう人がいて、だんだんそういう気持ちが薄れていく。それは他人だから。

しかし変わらない気持ち、という存在も私はあると知った。
そもそも人は変幻する生き物。だから特に男女関係においては、変わらない気もちというのは成立はしないと私は思う。でも、どこかに存在する。変わらない気持ち。それにはきっと幾つかの条件があって、何ミリかの利益も無いこと、どこにも疑う気もちのないこと、それから多くの味方を敵に回してもその人の味方になる程の気持ちがあること。

愛おしい、だらけは困る。
でも愛おしいという気持ちがあれば、私はこの世界に未練がある。だからこの世界のどこかを愛おしく感じる気がする。

2011年9月26日月曜日

About female sharpness

I asked the acquaintance yesterday and think that I will write about the impressive talk.
It means that it has the character  woman "to follow people's eyes."

For example, it is assumed that the woman Ms. A is fond of the male Mr. B.
Then, I think it natural that Ms. A tries to steal Mr. B's action.However, it is said that it does not come out so much and Ms. A pursues to Mr. B's "look."
And it is a thing that it is not an act to which a woman's action of "following a look" is applied to "a favorite man" according to an acquaintance's talk.

The word "intuition commits a woman" is heard. It may be got blocked and the woman may be coming instinctively from the thing of those who are worried or those who are in the circumference "for which her eyes are pursued."

I remembered suddenly that a certain writer had said, "An insensible woman is wonderful."
Possibly, it may not be good for a woman for there to be intuition too much, either.
Although "intuition" is not a foregone conclusion, a woman is that of "having looked" in inside free from not knowing.
The world of these days where such much information flies about. Doesn't my desire to prize "something that is not visible" now in such the world have necessity?

2011年9月25日日曜日

私にとってのカレーライス

私は小さい頃から「カレーライス」という食べ物が苦手だった。
多分理由は辛いから、というそれだけなんだったと思うが、一度嫌いというとなかなかその発言撤回をする機会がない。とくに子ども時代の私は、かなしくなるくらいに強情張りであった。
給食に必ずカレーライスという食べ物が出てくる。
私はそのカレーライスは残し、福神漬けを食べていた。福神漬けは大好きだった。

家でも私のカレー嫌いは定着しており、カレーを嫌う私に、母は私の分だけシチューを作ってくれた。テレビのカレーのコマーシャルを見る限り、カレーライスは「子どもの大好物」というイメージ付いている。
「カレーびより」だとか「朝カレーで元気もりもり!」だとか(少し違うのはうる覚え申し訳ありません)。

しかし大人になっても、私はそのカレーライスという一つの文化に、染まることができずにいた。
「カレーかぁ。わざわざお金を払ってなぁ」
でも男の子はみんなカレーライスが大好き。というより、大人もカレーが大好き。と、いうより日本人はカレーライスが大好き!成程なぁ。
私は上京する時に、一つ心に決めたことがあった。

「余計なプライドは全部実家に置いてきた」

染まってはいけない。しかし他の色に染まることは人間の楽しみの一つでもある。
上京してから付き合ったある男性は、「毎日カレーでもOK」という人だった。いきなりそこまでカレー教に住み込むことはできなかった。
が、彼のおかげで私はカレー嫌い宣言を、ようやく撤回する準備に入ることができた。

昨日、洗足駅の近くの「Bondy」という欧風カレー屋さんに初めて行った。私はビーフチーズカレーを注文。すると出てきたのは・・・


ほくほくのじゃがいも+バター。とアイス用のスプーン。
なんだか、これって。

じゃがが、カリーに入ることでの悪影響を除くことが理由なのかと思ったが、真相は謎です。
でもでも、微笑ましい。
そして運ばれてきた、カレーの美味しさといったら。
店員さんが、まるでディズニー映画のなかに出てくる人みたい。短時間でしたが、お菓子の家に入ったグレーテル気分になれました。素敵な笑顔と丁寧な接客に感謝。

そしてここのカレーライスさんは、私に、「概念の焼却」の重要性を知らしめてくれた。

2011年9月24日土曜日

あなたらしさ

「あなたらしさ」という言葉が嫌いだ。

そもそも、とはいえ、私はこのブログの自己紹介にて、人間っぽさについて書きたいほにゃほにゃと言っている。明らか矛盾している。でもそうなのだ。私は「あなたらしさを大事に」だとか、「あなたらしくないわ」とか言われると、何と返答していいか分からなくなってしまう。だからそんな言葉を、私に何かを教育してくれたり評価してくれたり、説明してくれる年上の立場にいる人に掛けられると、困惑する。

私の母も、どちらかと言うとそういう教えの人だった。
「人は人、自分は自分」。しかしこうも言った。
「人の振り見て我が振り直せ」人のああこの人のここの部分が自分は嫌だなと思ったら、自分はけしてしないこと。
逆に、人にされて嬉しいことは、周囲の人にもしてあげなさい、と。
要に自分は、かならず周囲のだれかに影響されている。影響されて刺激されて成長する。すべては自分が震源地ではなく、必ず周囲の「誰か」の「何か」に反応して、変化する。

じゃあ、あなたらしさ、とは何なのか。
あなたらしさ、は、「私らしさ」とイコールではない。自分以外の人の評価の一部である。自分では何とも思っていない所が誰かの気に入られたり、自分が気にもとめていない部分に警告切符が貼られたりする。評価を恐れているのかも知れない。だから私はあなたらしく、という言葉が嫌なのだ。

私は自分らしく行こう、突き進もうレッツゴーなんて思わない。常に誰かになりたいと思う。
その誰かは私の身近な人間な場合もあるし、生きていない異空間を泳いでいる三次元生物かもしれない。
私は小さいころ、「生まれ変わったら何になりたい?」という質問にこう答えていた。

「とびうお」

その頃の自分の普段考えていた事については、どこにもデータとして残っていないので残念だけれども、そんなにナンセンスな答えではないんじゃないかしら、と十何年経った、今思う。

2011年9月22日木曜日

Pinocchio

I saw today the movie "Pinocchio." Pinocchio is a Disney movie in 1940.
The contents of the tale are the following.

Mr.Geppetto makes a wooden doll. A name is Pinocchio.


Pinocchio becomes a bad child and is becoming a donkey.

However, by having had a brave feeling, it became a real child. 

Although classified to speak for children, I do not think so. 
A nose will be extended if a lie is told. It will become a donkey if a bad deed is carried out. 
I regard both as it being that an adult does from a child. 

A bad thing becomes natural. It stops recognizing a bad thing to be bad. 
The mouth of the adult who is calm and tells a lie. 
I seized on the essence as a person on this movie. 

a fairy -- Pinocchio -- thus, it says. 
A brave thing, a sincere thing, a humble thing .He who protected these was able to become a real child. 

I think that they are the most important things when these three items make a living as a person. 

The present world has too much temptation. I still learned the important thing for making a living as a one person from this tale. 
Pinocchio never returned to the donkey. I am also made to like to forget three promises I asked him to teach. 
Since I do not become a donkey.



2011年9月21日水曜日

人のまる、ばつ

天は人の上に人を作らず。

日本国の一万円札の顔であるお福さまが言ったとか実は言ってない、だとか、けれども心には刻まれる言葉に思います。
平等であるということは人間の大前提。誰かが上に立ったとしても、誰かが下の位置にいてたとしても、人としてその人自体が下になるわけではない。と、改めて文章にして読んでみると、何だかきれいごとのように思える。差別する人嫌だな、フェアな人間でありたいわ、なんて呟く人こそエゴ人かもしれない。

人間ですもの。好き嫌いはある。

まるとばつ、が書ける。
それはよくないことと思っていても、相性は努力する事で破ける布ではない部分もある。

これは過去の話しですが、
私はまる、ばつで言うと、大ばつの女の子と出逢った。わわっ。苦手だ。そう思った。
しかし話していくうちに苦手雲は消えていき、なんだぁばつは私の勘違いだったのね、と。
でも人間です。やはり布は丈夫で、破けることは出来なかった。
私はいまだにそのばつ子ちゃんのことを思います。
もしかしたらまる子ちゃんになったかもしれない。私の努力不足、ばつ子にもいいとこは一杯あった。でも、ばつは、まると全然違う形だ。

これから生きてゆけば、きっとたくさんのばつ夫やばつ子に出逢うだろう。
重い課題ですが、なんとか布を破く術をみにつけたい。

2011年9月19日月曜日

移籍

知人が中国転勤するらしい。メールで聞いた。
泣き顔絵文字が付いていたので、嬉しいことではないのだと思った。
自分が戦ってきた、たとえばグランドが、ある日突然まったく別な場所にかわる。
おおっと、ちょっと待って、と言ってしまいそうだ。
雲と戦う場面も起こり得そうだ。戦争の種類は同じでも、武器の名前が違うかもしれないし、その戦場にしか存在しないルールがあるかもしれない。
上を上を、
さらに上を目指す人。
満足とかじゃないのか。
野球選手がメジャーに行く理由は、上、だと思う。
上には上がいて、その上にも上がいる。伝染するのか、向上心は。
焦りは克己心に繋がっているのかもしれない。
どんなグランドで戦う選手であれ、戦う意欲のある人はかっこいい。

襟足が寒くなる季節が恋しい。
今日も暑い。

彼が、中国でいい試合が出来ます様。

2011年9月17日土曜日

年輪

昨日、年をとった。
年が増えた。あまり嬉しくない年になったなぁとしみじみ思った。
子どものときは、嬉しかったのに。

バウムクウヘンのケーキを頂いた。


年輪、という言葉を思い出した。
年を一つ重ねるごとに、一回り大きくなる。一年でいちラインずつ増えてゆくねんりん。
綴る、ことと似てる、と思う。
重ねる、重なっていく、増えていく。放置するかぎり増えっぱなし。減ることはないもの。
切断しないかぎり、消えることもない。
考えたらこの世のなかはそういうものの繋がりでできている。
風は断ち切っても、また別な風が進み、
水を切ってみてもクリアさは消えない。
ほっとかれる。
ほっとかれて、増え続けること。それはすごく怖くもある。

ああ、そこにあったの?
知ってはいたけど、存在感がなさすぎて、切るという判断にさえならなかったわ。
そんなことを言われたら、人間としてお終いだ。

バウムクウヘンを、一層ずつ、剥がして食べる方がいる。
ああいうタイプは、自分が生きてきた人生を噛みしめ噛みしめ食べている。
私はぼろぼろこぼしながら、少し豪快に食べる。
牛乳と一緒に。

2011年9月16日金曜日

part-time lover

Stevie Wonderの曲のことである。
パートタイムの恋人、という邦訳も出てはいた。今日知人にその曲のタイトルを聞いて、聴いてみたくなった。バラードかと思ったら、紀のいい曲だった。当時の彼の妻がバックコーラスとして参加しているとのこと。
浮気相手よ、本命ではない恋人って意味よ、と。
時間付きの恋人。限られた時を共有する恋仲。ちくたくとちくたくと時間は我々を追い込み、でも嫌じゃないわ、そういうの。人として誰かに酔ってしまった感じと、でも現実の生活は充実させときたいぜっていう本心との見え隠れらしさがありだなぁと思った。

恋ですべての生活は賄えない。

手のひらを二つ、同じ方向に向ける。ぴんと伸ばす。
幅は狭くなる。その意味の、視界を表すジェスチャー。
恋とかそういうのに似たものを感じてしまうと、視界が広がるようで、狭まる。狭まるのを無理に広げて、不思議な空間誤差が出来る。あらら、私の立ち位置はどこだったっけ。

時間は変えられない。
全くべつな二人がそのなかを共有するのだから、それは異空間同士をばしゅん、と合体させるような実験に近い。
時間が止まればいいのに、と思う。
あるいは巻き戻せたら。
でもそんなこと実際に起こったら、世界中の恋人間がそんなこと一斉に思ったように時間が変わったら、出逢えていなかったかも知れない。
だから時間は流れたままでいい。
すこしの時間のなかをシェアして、またワンにもどる。

2011年9月14日水曜日

ネットワーク、わーく。

アクセス解析について、そう考えたことはなかったが、
要に履歴が全て、記憶されるということ。
私に興味関心のありそうな広告が、見ているサイトさんに貼られってやってくる。
職業、性別、年齢はわかりそうなものだが、行動パターンや所在地、前職歴や、恋人がいるかいないか、どんな香水が好みか、どんなお酒を飲むか、どんな異性がタイプか、この一日の、自分の頭のなかがネットワーク内で感知され、管理され、いつのまにやら見えない奴ら(でも偉大!)の思うが儘になっている、とのこと。
先生のそんなお話しを聞いて一番怖かったのは、怖いという気がしない自分。

まぁ、生きてる時点でプライバシーなんてないんじゃないかしら。
と、私は呑気な考えすら持っていた。おお怖い。
自分を念入りにアピールしなければならない職業のひと。スターだとか女優さん芸人さんだとかは、きっと一般人に比べたらプライベートな部分さえ露出することも仕方のないこと。

でも私の友人、たとえば、山口はなこさん。
はなこちゃんが、今日朝スクランブルエッグを食べて、学校へ行き、
学校では一日中、大好きなごんざぶろう先生のことを考え、一度帰宅し、着替えて出掛け、
三宿のごんざぶろう先生の家へ合鍵を使って入り、先生が帰ってくるまでテレビを見ていたら、ヒッチコック急便のお兄さんが再配達にやってきて、伝票にサインをするときに軽く触れてしまった手に電流が走り、そのまま玄関でそういう行為になってしまった。

とか、あまり笑えない出来事が、すべてどこかで見つかっているのだ。
どこで呟かれるか、どこで「違いを発見」されるか、どこで間違いをあざ笑われているかわからない恐怖。
精神的に、強くないとしぶとくないと、気付いたら熱を上げてシャットダウンしてしまう。


壁に耳アリ、障子に目アリ、との
コトワザ生まれた当時の方の忠告の重さは、
昨今ほどになるとは思わなかったに違いない。

2011年9月12日月曜日

夏の終り

今日、夏が終った。

私はそう思いました。
十五夜だそう。お月様にいるうさちゃんの存在は、日本だけではないと聞いた事がある。
お月みたいな幻想的な、でもそこにちゃんと存在しているもの。
いくら人間の技術が、日進月歩、日進月歩でアンビリーバボウで優れたものに進化してきているとはいえ、宇宙空間に存在しているものには適わない。規模が違う。目指すことも意味がないと思う。

おとといの蝉。


暑い暑い暑い日の真昼でした。
蝉の鳴き声を聴くと、私は人間に生まれてよかったと思ってしまう。
実家で猫を飼っていた。
夏になると、リビングで蝉の鳴き声がするので、見渡してみると、猫が蝉を半殺しにして持ってくるのだ。猫は飼い主に、自分のハンター振りを褒められたい性質があるらしく、「生きたまま、持ってくる」のだ。スズメや虫の時もあった。
やがて蝉のあの鳴き声は泣き声になり、亡き声になった。
しかし猫も狩猟民族であるので、本気で叱るわけにもいかない、と母は言った。

「蝉は一週間しか生きられないのよ」
という短命伝説が有名だが、どうやらそうとも言い切れないらしい。
人間に飼われた場合飼育困難で、約一週間の命という。野外で夏を過ごす蝉はおよそ一か月の夏という人生(蝉生)を満喫する。

そうしてもう一つ新しい言葉をみつけた。
蝉は不完全変態をする昆虫だということ。
完全変態とは、以下の形で変態する昆虫のこと。
★卵→孵化→幼虫→孵化→蛹→羽化→成虫。★
その虫の変態模様を施すよいうになった理由の一説としては、古生代の寒冷期という悪環境を乗り切るため、だと言われているそう。
虫こそ自分の種の存続に文字通り命を懸けているのだ。
人間もよく未熟な位置でいることを蛹、だとか卵、だとか表現するが、その「蛹」でいるときが重要な役割を果たしているのだった。


でも、
でも、せみにはなりたくない。
人間でよかった。

2011年9月11日日曜日

女性の木

最近、知人が言った言葉が強く残った。

「女性は、生まれたときから防御能力を持っている」

その方が言うには、女の人は子どもを宿し、生むという機能、そして産んだ子を育てるという能力を持っている為、男性に比べ自己防御能力に優れているのだそうだ。

要は自分を、というより自分と同じ程あるいはそれ以上に、自分の子を守る為の力か。

ちっちゃな子どもを連れて電車に乗っているママさんを見ると、確かに強いなと思う。
自分だけであれば、自分、あとは自分の周りの世界、を視界としておけば済むことが、
子どもを連れている方は、自分、自分取り巻く世界、に追加して
子ども、その子を取りまく世界のことまで見てなきゃならない。
まったくの見知らぬだれかの母であっても、自分の母への尊敬に値する。

知っている女の子が、言った。
「早く子どもが欲しい」
母性本能なのでしょうか。
自分の子ども、という未知の領域に、想像すらつかない私は母性本能不足かも知れない。

女性が防御能力に長けていることに、男性が気付かない場合もあるらしい。
「意外と強いな、この女!」
と、男性が感じる所があったらそれが女性の防御能力のどこかなのでは、と思う。
女のひとのほうが男のひとより、「血」に強いという強論も、
その防御能力の一部かも知れない。
それは単に見る機会が多いだけでなく、女の人は赤が好きだから。

女性の木があったとしたら、赤い葉っぱ。秋じゃなくても。

2011年9月9日金曜日

恋について

「BRUTUS」という雑誌の今月号。
蒼井優ちゃんが首を傾げすくめながら、
「恋の、答え。」という表紙にきゅんとした私は、思わず手に取っていた。



文字通り恋、についての特集で、色んなジャンルの歴史人物目線からの
恋を垣間見ることができた。
わかりやすかったのはただの「恋愛論」や「恋の哲学」等ではなく、
恋の「アンサー」についてを組んでいたこと。
恋愛なんて本当に個人的で感情が流れを左右するものだから、人がこうあるべきという正論は存在しない。
そういう押し付けがましくなさに好感があった。

恋をすると周りが見えなくなる。
そういう言葉を聞いたことがある。
周り、とは
①自分の周りにいる異性、人間。
②もしくは自分の仕事や趣味、習い事、勉強していること等、形のあるもの。
 
周りが②であれば大問題だ。恋に関わったことにより起こった人災になってしまう。
①は、いい。
好きな人、「恋をしている人」がいると言える自分を、自分自身が認めているからだ。
他の異性は目に入らなくなる。
たとえ他の異性にきゅんとすることがあってもきゅんどまりだ。
その恋をしているお相手のことを妄想し、自分だけで羅列され繰り返される生活に侵入させること。
この世界に存在するすべてのものに著作権やらが肖像権やらが存在すると先生はいうけれども、
妄想域で留めておけば何の問題もない。
「恋をしているわ」とはっきり言える状況があるのは素晴らしい。

しかし、相手に自分の「好き」という気持ちを押し付けてしまう人もいる。
それについてはいかがなものかと思う。
もともと自分発信で恋に落ちてしまった人が、自分を好きになるなんてそんな気持ちの相互関係こそ
ミラクルと呼んでしまってもいい位の域だと思う。


勿論自称動物的に生きており、「メスなら誰でも」という殿方もいらっしゃる。
しかしそれは恋ではない。

妙に、妙に心に残っている、言葉。
「ずっと忘れられない人を初恋と呼ぶ」


その論でいくと私の初恋は高1だった。
その人を想うだけで涙が出てきた。精神病の切り口だ。
症状としては常に揺れ動めく状態が継続していること。
脳がとりつかれてしまうこと。由って原因の理由は内因にあたる。
恋煩いという素敵な日本語が教えてくれるように、恋をすることとは
恋をしてしまった、恋に落ちてしまったこと、との表し方のほうが正確ではないか。

私の好きな作家の江國香織さんの「東京タワー」という物語の有名な一文。
「恋はするものじゃなく、おちるものだ」

落ちてしまった
   ↓
落ちりっぱなし。
現在完了形か?

その「落ち方」については多分誰もが予測していなかった出来事。
しかし落ちてしまったからには、落ちてしまった相手の存在を大事にしたい。
そういう心身の欲求がぽんぽんと付随して、
恋に落ちた代償の大きさを知る。



2011年9月7日水曜日

フォーマーから、もらった衝撃

フォーマーとは、映画で効果音を作る人のことです。

「MIBⅡ」という映画を観てその名前を知った。
あの映画は奇抜な宇宙人が色々と出てくる。

たとえばぐにょぐにょした宇宙人が、撃たれたとき。
「ばちゅあぁぁ」の、
ような擬音が必要とされる。
一からつくるのだ。
どうするかというと、そうだ、あれを使おう、これも足そう、
それはおかしいだろ、のような感じで
フォーマーさんたちが作りだす。
「ばちゅあぁぁっ」の場合、
彼らが何を使ったかというと、水の入ったゴム風船のようなものを
ばしゃん!と割ったのだ。
そしておお、いいじゃん、と周りからOKが出る。

その現場の映像のなかで、彼らのなかの一人がこう言った。

「『この映画にはフォーマーがいたのか!』と言われるのが僕らにとっての褒め言葉だよ」

ああ、すごいなと思った。
裏方と言われる仕事のなかでも
けして目立たない。でもこの工夫して作り出された音によって
映画のワンシーンはよりリアルになる。
マシンで最新ソフトによって組み合わされたではない、
「フォーマーの部屋」にいる彼らによって作られた音。
中は金具やバケツやボールや、
まるで子供のおもちゃ箱と大工さんの木工具箱を足したような部屋だ。

印象に残ったのは、
2、3人の彼らが、本当に楽しそうな顔をしていたこと。
狭くごちゃごちゃした部屋で。

性的倒錯

これは、性道徳、社会の常識から逸脱した、性的嗜好のことを指している。
一般的には変態と記されることと同だと思う。
 一応その性的嗜好の意味調べたが、それについては個人的な概念や価値観、解釈があるため曖昧であり、
十分な注意や配慮が必要とされる、と記されてあった。
その理由としては差別、偏見に繋がるから、だそうだ。
確かに性的な事柄については、もう個人的極まりないことであり,逆に他人にべらべらしゃべる人の方が周囲に変な目で見られたりするもの。
 しかしその性的嗜好については、事実、基準点がない為、厳密に忠実に、ランクAだとかこの人はタイプ2のWの3度の変態であるというふうに定義出来ない。
つまり人間にしかあり得ない、人間らしさの一つであると言える。
 精神医学の分野では、精神障害の一種として診断されている症状を指す。
しかし膝を怪我したとか右腕を骨折した、等の目に見えるものではないため、
プライベート性が高く、その症状の重度についても、第三者にとっては判断しがたい。

なぜこういう話題になったかというと、最近知人のこんな話を聞いた為である。
その知人Eさんは。東北地方にKさんという知人がいた。
 そのKさんは、農家で豚や羊などの家畜を飼っていた。
「Kは、本当に変態なんだ。 自分とこの、ひつじやにわとりとやっちゃうんだ」
私はEさんのブラック冗談かと思ったが、どうやら本当らしい。
そのKさんとは女子では飽き足らず、 動物とそういった性的な関係を結んだとのこと。
 私と、その話しを聞いた女の子はひどく衝撃をくらった。

 しかし。 しかし昔に何かでそんな話を訊いたことがあった。
そうして思いだしたのが、アゴタ・クリストフの悪童日記という本である。
 そこには性倒錯者の将校が登場したり、わんわんと性的関係に結ばれたりするシーンがあるのだ。
勿論それには戦時下で縛られた生活からの脱却を切望し苦渋からのしょうがなしの現実回避などの理由があったかも知れない。
しかし性的嗜好というのは、かなり個人的な所存、第三者がこうです、ああですと介入すべきものではないのだ。
敢えていうならトイレの個室での作業のようなもの。
皆当然のことのように済ませてはいるが、他人の作業を、見たことはない。

性的倒錯は人という動物のなかで、ひろがりゆく世界。精神学、生理学等にも跨っている。
その分類しがたいなかでもちゃんと仕分けがなされてある。

よく聞くのはマゾ、サディズム。 露出狂、小児性愛、
フェティシズム(これはモノ、や人間の体のある一部などに性的興奮を覚えること)等。
 訊いたことのあるようなないような・・イズムの変態名が羅列してあるがどれも人間であれば
なきにしもあらずというような気がしてしまう。

 その中でも目に留まったのはハイポクシフィリア。
 これは低酸素症や窒息行為、窒息プレイにより心身ともに興奮、快感を覚えるというもの。
性的、とは言うが、以前聞いた話で、 登山する人は高度まで登ると、脳が酸素を奪われ、低酸素症により幻覚症状を覚えるという。
それが絶頂と結合され強力ハイパーな習慣性があると述べられている。
 つまり心というよりもう極にいってしまうからだがそうなる、ということである。
 窒息プレイにより死亡した件も記されており、 死にまで至ると何にもならないが、
快楽を得る為には人はこぞってなにか術を探る、というのは全世界共通であり、それは人の欲求のあらわれ。私たちは常に、①何かを求め、そのせいで②何かに窮する。③そして①以上の何かを求める。

しかし死んでは、本当に意味のない。
だんだんと刺激だったり難しいもの、際どいもの、自分自身の手ごろもに入れるのが困難なものを求めるのはやっぱり、やっぱり人間の性。
すべてに興味のなくなることよりかは、素晴らしいことだと思うのだけれども。

2011年9月6日火曜日

水が1秒間に何回回っているか

物理のスペシャリストであられる方と昨日お会いした。
私と一緒にいた子が、その方に訊いた。
「物理ってなんなん?よくわからん」

その方は笑ってこう言った。
「たとえば、この瓶に入っている水が、
1秒間に何回回っていると思うか?」

「何回?水って回ってるの?
止まってるじゃないですか」

「いや、回っているんだ
正解は1兆回。」

「兆?!」
「それが物理だ」

そのあまりに想像しがたい数値を
ちょっとでも、と思い物理ページを
覗いてみた。
◆純水では膨大な数の水分子がOH...Oの水素結合で
つながっている。
あるときは整然とあるときは乱雑に
集団で揺れ動いている。
OH結合は、1秒間に1兆個も振動、
回転しながらつながったりはずれたりして
揺れ動いている。

「たとえば太陽が1秒間に,
どのくらいの水素を
燃やしているのか」

◆1秒間に、6億5000万トン。
莫大な水素を持っているので後50億年以上は
現在の水素を燃やしながら輝き続けることができる。


「じゃあ、質問です。福島原発は
どうにかならないんですか」
と彼女は聞いた。
その方は即座に答えた。
「止めるは無理」
「無理なんですか」
「無理。最小限に抑えることに全力を尽くすことしか出来ない」



◆元々太陽のみが司ることが出来る、核結合◆
太陽がその1秒間に起こす水素爆発により、
5億9600万トンのヘリウムを生み出して、
その差400万トン/秒分をエネルギーとして放射し
そのうちの0.0000004%が太陽光として地球に届く事により、
私たちは生きている。

太陽が作り出したパワーを、
人間が核分裂というえせの形で作り出してしまったこと。
完璧な人災と非難する声はまさにその通り。
その強欲さが招いた責任は重い。刈り取れない種薪き。


6億5000トンという数値に、知のない私は
リアルさを求めることが出来ないが
その太陽のおかげでこうして生活ができていること。
繋がりはけたたましい数値で到底人間が真似でき得る数字ではないと思うが、
「繋がっている」ことに感謝をすべきだと思う。

tree of life

宗教という人間の思想に、上限も下限もない。
いわば天に届いてしまう場合もあり、逆に実際見たこともないだろうに地獄というアンダーグラウンドまで作り出してしまう。宗教というものはほんの触りに、誰かが誰かに対する「教え」から始まる。
多くはそれが自分の「親」から発行される。
「子」は、受動態でしかない。

この「tree of life」という映画を観て、一つ思い出した映画がある。
1998年の米映画「アメリカンヒストリーX」という映画。
トニー・ケイ監督作品、エドワード・ノートン主演であり、
話しの内容としては、白人至上主義の青年が若さと知性を武器に、黒人への人種差別・貧富の差を題材にしたものである。

この主人公が、白人至上主義という服を着始めた理由の発端は、
その父親であった。
若い時期(大きくは子どもの時期だと思う)に親から浴びせられる言葉、
また小さな呟きであろうとも、子どもはそれに従う。それが正しい事だとと思う。
子は親を理屈抜きに信頼しているからだ。
それくらい、実の親が子どもに与える影響力は大きいのである。

なにかを尊崇している。例えば、哲学者、物理学者であったり
何か功績を成し遂げた同業の人。好きな歌手、俳優。先輩、父親、母親。
例えばその人が、自分と異なる考え方だときづいたとき。
さてどうしよう。
その人へのリスペクトを安易に止めるか、自分の考えを曲げるかのどちらかだ。

宗教心というものについては深く知っていない。
しかし人の考えかたというのはふっと湧き出たり雨のようにぽつんと降ってきたりはしない。
誰かに必ず影響されて、この方向にたどり着きました、という過程だと思う。
自分が歩いてきた道がくねくねしていたとしても、
誰かのある一言で、ぽっきんと折れ、
180度異なる方向へ、進むかもしれない。明日からは。